ヨーロッパのメディアは、軍部が執った措置が、ミャンマー全国民の抗議の波を引き起こした、との印象を執拗に作り出そうとしている。テレビには、ヤンゴンとマンダレーの街頭で行われた、大人数によるデモらしき映像が映し出されていたが、現代の目の肥えた視聴者は、たとえ参加者の数が最小限であったとしても、それが大人数に見えるように、依頼を受けたカメラマンがどのように抗議デモを撮影するのかを、よく分かっている。報道によれば、抗議活動の中心は、都市部の知識階級や学生らであるという。デモの参加者は、容赦のない力ずくの反撃を誘うように、彼らを押し隠す警察や兵士に対して、これ見よがしに公然と喧嘩を売っていた。ミャンマーのソーシャルネットには、「火炎瓶」の作り方に関するビルマ語での詳細な解説がアップされた。

けれども、ミャンマーは、ヤンゴンとマンダレーが全てではない。この国は、フランスよりも大きな国土と5500万人の人口を擁しており、その四分の一は、数多くの少数民族から構成されている。したがって、軍部による非常事態の施行に対する抗議が、国内で「全国民規模の」性質を持つというのは、明らかなこじつけと言えよう。

ミャンマーの政治における国軍の主要な役割は、その歴史的発展の特殊性に運命づけられている。ビルマが独立を獲得する時期まで、たとえばインドとは異なり、自らの手で国家の舵取りを行えるような国産の政治エリートは、事実上存在していなかった。宗主国が主導する政権は、国家機構や政治の下級ポストを少数民族の代表やインド人に与え、土着のビルマ人の権力機構への登用を、できる限り制限した。また、植民地支配下のビルマで多少なりとも影響力を持っていた実業家の中にも、土着のビルマ人は存在していなかった。大企業はイギリス人の管理下にあり、中小企業はインド人か中国人の管理下にあったのである。

それと同時に、第二次大戦中、ビルマでは強力な国軍が形成され、当初からそのトップには、愛国主義的気運のある、教育を受けた若い土着のビルマ人が就いた。そのため、国軍は、ビルマにおける民族主義の主たる担い手、そして国の価値と安定性の保証人となったのである。数十年に渡って国境地域における分離主義的武装蜂起と対峙してきたのは、ヤンゴンの知識階級や学生らではなく、ほかでもない、タッマドーの代表らであった。

By KokusaiSeikatsu

『国際生活』はロシア連邦外務省を発起人とする、国際政治、外交、国家安全保障の問題を取り扱う月刊誌です。創刊号は1922年、『外務人民委員部週報』として出版され、1954年に『国際生活』として、月刊誌として復刊しました。今日、ロシア国内だけでなく、世界各国においても幅広い読者を獲得しています。