«Haló noviny»:歴史的アプローチの原則に反して、さまざまなマスメディア、さらにはいくつかの政治組織が、第二次世界大戦の主な原因を、1939年8月23日に締結された独ソ間の条約だとしています。一方で、1938年のミュンヘン協定や、ヒトラー率いるドイツとヨーロッパ各国との間の条約関係については、言及されていません。現代のロシアの歴史家たちは、この独ソ間の条約をどのように位置づけているのでしょうか。このテーマでの議論は、どのくらい活発に行われていますか。

A.ズメーエフスキー:モロトフ=リッベントロップ協定と呼ばれる、ソ連とドイツとの間での不可侵条約の締結は、ロシアの専門家の間で活発に議論されています。このテーマに関して、多くの公開資料が存在します。この条約が調印された背景に関しては、ドイツの侵略に対して協力して反撃する組織を作ろうとした際に、ヨーロッパが受け身の姿勢であり、本質的には、ヒトラー率いるドイツと一対一で相対することになったソ連にとって、これ以外の選択肢が存在しなかったということが力説されています。条約の締結は、ナチスドイツの避けられない攻撃を先延ばしにすることにつながり、ソ連は、二つの前線で戦争を行うことになるだろうという状況下で、攻撃に対する準備を整えるための猶予を得ることができたのです。専門家らは、この場合、プラグマティズムが、イデオロギー的逡巡、人道的・政治的逡巡に対して、打ち勝った、との結論に達しています。ここで忘れてはならないのは、イギリス、フランスそしてポーランドも、当時同様の協定をドイツと結んでいたということです。

 ロシアでは、ソ連とドイツの間で条約が締結されるまでの経緯が、時折、完全に忘れ去られていること、そして、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をヒトラードイツが平らげることを、イギリスとフランスが許すことになった、1938年9月のミュンヘン協定が、その先駆けとなったことにも注目が集まっています。また、1939年3月中旬にはすでに、ナチスドイツが、またしてもヨーロッパ列強の黙認を背景に、チェコの全領土を占拠し、スロヴァキアに傀儡国家を建設したのでした。

 チェコのM.ゼマン大統領は、ナチスによって破壊されたリディツェ再建70周年に寄せた演説の中で、このテーマに触れて発言しています。彼によれば、もし「民主主義的国家と呼ばれる国のトップが臆病者でなかったら、戦争は避けられただろう。しかし実際にはチャーチルやド・ゴールではなく、チェンバレンやダラディエがいたのだ。快適な書斎で執務を行いながら、戦争を危惧する有権者たち大半の、平和主義的な当時の気運を心配していたのである。そのため、彼らは小さな戦争を危惧した結果、大きな戦争を引き起こすことになった」のです。

 残念ながら、1939年にソ連とドイツの間で条約が締結されたという事実は、具体的な歴史的文脈から切り離されており、ロシアに対して悪意を抱いている人たちによって、歴史的な出来事を情勢の関心に沿うように政治的に色付けする手本として、プロパガンダ活動の枠内で使用されているのです。

«Haló noviny»:『第二次世界大戦の総譜』(編集長はN.A.ナロチュニツカヤ、V.M.ファリン)という論集の中で、「第四次ポーランド分割」の結果、ソ連はベラルーシ人とウクライナ人が多く暮らす地域を自らの管理下に置き、国境を300km西に移すことに成功した、という記述があります。ひょっとして、まさにこの追加の300kmが、ヒトラーの電撃戦の目的である、計画していた電撃的勝利を阻んだのでしょうか。この事実は、ロシア社会で議論されていますか。

A.ズメーエフスキー:N.A.ナロチュニツカヤとV.M.ファリンは、著名な権威ある専門家で、当然、彼らの意見は、社会におけるテーマ別の議論において、反響を呼ぶことでしょう。いかなる軍事的衝突においても、前線が遠いことが重要な役割を果たすという事実に対して、異議を唱えることは簡単ではありません。この場合も、戦争前夜には、ソ連とポーランドの国境は、ミンスクからせいぜい数十kmの場所にありましたが、これは軍事戦略的観点からは、きわめて不都合なものでした。

 ソ連の指導部は、ポーランドに侵攻したドイツの、軍事活動に加わらないかという呼びかけを最後まで無視し、イギリスとフランスが自らの同盟国を救うつもりがなく、ナチス軍がすぐにでもポーランド全土を占領し、事実上、ミンスクへ迫っていることが明らかになって初めて、9月17日の早朝に、現在はベラルーシ、ウクライナ、そしてリトアニアの領土の一部となっているクレスィと呼ばれる地域(この領土の一部は、1919年から1921年にかけてのポーランド・ソビエト戦争の中で、ポーランドがロシアから奪ったものです)に、赤軍の進駐を承認したのでした。

 この観点においては、1934年に、ヒトラーとの間に不可侵条約をいち早く締結したポーランド自身の行動にもまた、注目すべきです。ソ連諜報部は、ソ連に対してドイツとともに進撃しようとしていたポーランドの計画に関する情報を入手していました。ワルシャワが、ミュンヘン協定が調印された直後に、チェコスロヴァキアに対して何をしたか、想起してみればよいと思います。

By KokusaiSeikatsu

『国際生活』はロシア連邦外務省を発起人とする、国際政治、外交、国家安全保障の問題を取り扱う月刊誌です。創刊号は1922年、『外務人民委員部週報』として出版され、1954年に『国際生活』として、月刊誌として復刊しました。今日、ロシア国内だけでなく、世界各国においても幅広い読者を獲得しています。