もっとも切実な課題の一つとなったのは、第二次世界大戦中の、ナチス占領軍と地元兵士との協力関係である。アーカイブ資料が裏付けているように、1941年夏に共和国の領土にドイツ国防軍が到達したあとに成立したリトアニア臨時政府は、新たな占領当局との間に積極的な協力関係を構築しようとした。リトアニア警察隊が、ユダヤ人に対する懲罰行為に参加したというのは、確かな事実である。エストニアとラトビアにおいても、ナチスドイツの側で戦闘を行ったSS部隊が編成された。ラトビア占領博物館のサイトには、隊員はドイツ第三帝国のために戦ったのではなく、ボリシェビキから自らの共和国の自由を獲得するために戦ったのであり、したがって、彼らはラトビアの英雄と見なされる、と記されている。

このナラティブは、エストニアにおいても、政治的なレベルに格上げされた。近年では、2019年4月から2021年1月まで連立政権を組織していたエストニア保守人民党が、その活発な支持者となっている。そのような中で、2019年7月、エストニア議会「リーギコグ」の議長で、エストニア保守人民党副議長のH.プルアスは、2004年に撤去された、ドイツ側に付いて戦ったエストニア兵を称える記念像を、リフラ市内に再建するという考えを支持する、と発言した。エストニア保守人民党所属で、欧州議会の議員であるY.マディソンも、エストニアSS師団の兵士らが、共和国の独立のために戦った以上、「一切の疑いなく」、国民は自らの英雄を敬うべきであると強調し、彼に同意した。

けれども、バルト諸国におけるドイツ占領軍への協力者を英雄に祭り上げる流れが、西ヨーロッパ諸国で満場一致の支持を得ることはなく、そのため、2004年のEU加盟の際には、エストニア、ラトビアおよびリトアニアは、ドイツ側に付いて「ボリシェビキからの解放」のために戦ったエストニア、ラトビアとリトアニアの兵士たちが、なぜ並行してナチスの戦争犯罪とユダヤ人に対するジェノサイドに参加しえたのかを説明する、説得力のある根拠を探し出す必要に迫られたのである。ロシアの歴史学者V.V.シミンジェイが指摘しているように、バルト諸国において、犯罪は、「強制的に」、そして「まやかしに変わった大きな期待」によって行われたのだと主張しながら、ドイツとの協力の強制的な特徴に意識を集中することが決定されたのであった。

とりわけ、学校で使用されている歴史教科書の中に、これに関する説明がある。たとえば、ある教科書には、「もし1940年にラトビアがソ連に占領されることなく、また、占領が平和的な市民に対する抑圧を伴っていなかったとしたら、ナチス体制は、ラトビア人部隊を編成することはできなかったであろう」と強調されている。さらに、ラトビアの歴史学者I.フェルドマニスは、「戦略的協力」のテーゼを提唱している。これによれば、ラトビア人はドイツ人に協力したが、それはラトビア人民の利益を達成するためであったのだという。

しかしながら、1960年代から1970年代にかけて、西ヨーロッパでは、独自の共通の文化的遺産と集団の記憶が形成された。第二次世界大戦後にヨーロッパ共通の歴史・文化的コンセンサスの主要な要素となったのは、ホロコーストとナチズムに関する記憶である。これに応じて、ドイツ連邦共和国は、フランスやその他の西ヨーロッパ諸国とともに、民主主義的社会の構築と、社会的、経済的発展に同時に取り組みながら、ユダヤ人に対して行った弾圧を認めたのであった。けれども、その後のEU拡大とともに、21世紀の歴史・文化的コンセンサスは、その他の国々、特にポーランドとバルト諸国が発信する新たなナラティブを取り入れながら、形を変え始めた。反ロシア的な雄弁術が盛り上がりを見せる流れの中で、エストニア、ラトビアおよびリトアニアが、その他の大多数のEU加盟国の先頭に立つようになった。そしてこれが、クレムリンに対する姿勢をめぐる、組織としての共通の立場に影響を与えるようになったのである。

そして、2005年5月12日、ヨーロッパにおける1945年5月8日の第二次世界大戦終戦60周年に合わせた決議が、欧州議会で採択された。この中では、ソ連崩壊後、中東欧の国家と国民が、「数十年に渡るソ連の支配および占領を乗り越え、自らの運命を決定する自由と権利に満足」することができている、と指摘されている。2006年1月25日、欧州評議会議員会議は、1481号決議「全体主義的な共産主義体制の犯罪を国際的に非難する不可欠性に関して」を採択した。このうちのある条項では、「中東欧における全体主義的な共産主義体制」の崩壊後、「彼らによって行われた犯罪」の国際的審理は、すべての事例において結論が出されたわけではない、と記述されている。

By KokusaiSeikatsu

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