イタリア(ローマ、ポンペイ)

 イタリアのサッカーチャンピオンズリーグでの取っ組み合いを見ていると、ローマ帝国が、ミラノやトリノ、フィレンツェやシエナ、ナポリやローマ、ヴェネツィアやシチリアといった、別々の王国や都市国家へと崩壊した当時の競技場の様子が反映されているように思えてくる。

 スポーツファンは、かつて彼らの祖先が勝利を収めたり、反対に、サッカーの試合での成功を、あたかも歴史的戦いへの自らの貢献であるかのように祝ったりすることを忘れようとはしないのだ。

 もちろんイタリアはとうの昔に統一されているが、それでもやはり、「元老院とローマ市民の名において」実現されていた統治時代は、誰にも安らぎを与えはしないのである。

 観光客にとっても同様。

 至るところで古代文明の痕跡をたどることになるのだ。たとえ、無数の大理石のプレートが、古代建築の作品を装飾することがなくなって久しいとしても、それらは、類まれな巨匠の彫刻作品とともに、別の所有者の手に移ったのである。技術者のアイデアと意図を盗むことはできないのだ。

 中世ヨーロッパの野蛮人によって外壁を剝がされたコロッセオを訪れた際に、そのレンガはネロ帝の宮殿に用いられ、豪華なデコレーションを犠牲にして装飾されたのだということを語ってくれる人は少ない。特殊な技術的構想が、人工の水流で剣闘士や動物の血を闘技場から洗い流すことを可能にしただけでなく、海戦ショーのために大量の水を張ることもまた可能にした、ということも。水門や監禁所は、今はどこにあるのだろうか?

 そして、なんというアーチの構想とドームであることか! 理想的で、絵画的でもある。

 のちのロシアの偉大な移動派画家を、ツァーリが直々に「年金」を支給して、ロマネスクの古典の巨匠らの経験に学ぶために派遣したのにも、きちんとした理由があったのだ。

 カサマツの茂るアッピア街道は、今も変わらずにポンペイへと延びている。ヴェスヴィオ山のふもとで発掘された遺構のそばで、いい年をしたウクライナ出身の二人組が、この悲劇的に消滅した都市の住居や祭殿を芸術的に復元した写真アルバムや絵葉書をロシア語で勧めてくる。おそらく、異国の地でこのようにして働くことは、母国で搾取されるよりも興味深く、儲かるのだろう。彼らにとっては、意義のある仕事なのだ。

 数千年の歴史を誇る路上の男根は、船乗りなら誰でも知っている場所がどこにあるか、観光客らに指し示している。だが……

 0.5mほどの高さの歩道が、港へと下る古い道の両側に続いていた。そして、それらの間には、切り株のような形の石の足場が、等間隔で二つずつ並んでいる。

 どんな質問にも準備万端のガイドは、これは歩道橋だと説明してくれた。

 「女性の足は、いつでもお世話と清潔さを必要としています。ですが、貴族の二輪戦車や平民の荷馬車に付けられた馬のフンで汚れた道を渡るには、どうしたらいいでしょう? そう、この飛び石を渡るのです。この飛び石が、馬の通行を妨げることはありませんでした。雨水が有機物を自動的に海に流してくれますし、油のにおいが悪臭を消してくれたのです。」

 これを文明と呼ばずしてなんと呼べばよいか! サンダルも服も汚さずに済むのだ……

 ノヴゴロドを思い出してみよう。ロシアのものは木造であるが、同じような構造の歩道が存在する。我々の祖先は、現代人と同様、婦人を非常に大切にしていた。聖ソフィア大聖堂と「ロシア建国一千年祭記念碑像」のそばにある博物館には、地中に眠っていたロシアの女性用の靴が保存されている。100年の間に色あせてしまったが、形は当時のままである。現在のミラノの木型と比べてみても、ほとんど変わらないだろう。

 ところで、どうしてロシアにはイタリアファンが多いのだろうか? モスクワは第三のローマであり、第四のローマなんてものは存在しない。そんなことを無意識のうちに思い起こしているからだろう……

By KokusaiSeikatsu

『国際生活』はロシア連邦外務省を発起人とする、国際政治、外交、国家安全保障の問題を取り扱う月刊誌です。創刊号は1922年、『外務人民委員部週報』として出版され、1954年に『国際生活』として、月刊誌として復刊しました。今日、ロシア国内だけでなく、世界各国においても幅広い読者を獲得しています。