マドリード
予測不能の衝撃を楽しむべし!
カスティーリャの雄大さ。大通りや通り、広場の広大さと頑強さ。コロンブスに関する回顧と、スペイン資本によるアメリカ大陸の発見。プラド美術館とティッセン美術館。エル・グレコ、セルバンテスとロペ・デ・ベガ。イスラムの重要な遺跡。ハプスブルク家とブルボン家が埋葬されているエスコリアル修道院。
肉、魚とワインのバリエーションの豊かさ。
悪意で作り上げられたスペインのイメージが、一瞬で崩れるだろう。
二流ではない、威風堂々とした姿!
イギリス人と、ラテンアメリカの植民地から本国に向けて金銀を運搬していたスペインの船を、キリストの十戒を忘れて強奪した、必要以上に褒めちぎられた女王に対するいやがらせ。
現在のシティ・オブ・ロンドンの「世襲財産」のうちの何割が、この強奪の「元本」と利息で成り立っているかを知っている人はいるのだろうか?
プラハ
ヨーロッパの都市の母。建築のお手本。ヴルタヴァ川とカレル橋。
カール四世が幼少期にパリで教育を受けたことに関する説得力のある話を聞いて、知識を充実させよう。彼は、チェコの玉座をめぐる闘争から王朝が分解してゆく時期に、パリにかくまわれていたのである。
教師や霊父によって次期ローマ教皇に選ばれるほど、彼は大切に守られていたのである。この、のちに大祭司となる指導者は、手に入れた宗教権力を利用し、被後見人を神聖ローマ帝国の皇帝とし、プラハをその中心に定めた。
おそらく、これがもしヨーロッパの別の国の首都であったら、抗争へと発展していただろう。なぜなら、帝国内で集められた税や徴収は、教皇の祝福により、彼に近いチェコの小国の王の国庫へと直接入っていたからである。
カール四世は、国庫を適切に使用した。規準となる都市を作り上げた。城を建設し、人々に富をもたらした。
平和で素朴な暮らしが、そこにはあった。
その後はどうなっただろう? チェコ人は、二人の庇護者が亡くなると、教皇からの恩恵や、ヨーロッパ全土からの収入を手に入れることができなくなった。チェコ人はこれを侮辱と受け取り、その後、バチカンに対する不満がヤン・フスを生んだのであった。
あとに続くチェコの変貌はすべて、ここが起点になっている可能性があるなど、誰が思い付くだろうか?