カタールは、自らの立場のリスクと欠陥をすべて認識した上で、「ヘッジ」の名手となった[20]。これは、近隣諸国に対する対決的・協力的アプローチの統合を見越した戦略である。たとえば、1979 年の革命以降イランから生じた脅威と対抗する目的も含めて設立された湾岸協力会議の創設国の一つでありながら、カタールは一貫して、イランと接近する政治方針を執ってきた。またカタールはイスラエルとの関係においても、1996年に通商代表部を開設し、ペルシャ湾の国家の中で真っ先にイスラエルとの貿易関係を構築したが、また他方では、ハマスのリーダーらを定期的にドーハの高級ホテルで接待するなどして、ハマスの最大のスポンサーの一つとなったのである[20]。

 カタールは、2003年のスーダン政府とダルフールの暴徒との間の緊張緩和、さらには2008年のイエメン政府とフーシ派暴徒との間の緊張緩和において重要な役割を果たした。

 「アル=ジャジーラ」の中心的役割を果たす人物の一人であるジャマル・アブドゥッラが詩的に表現しているように、「マシュリクのジュネーブ」の地位を保障することが、カタールのメディアとPRの課題の一つでありつづけている。けれどもサウジアラビアは、カタールのこの方針に対してかなりの警戒感を抱いている。

 そしてもし、2011年までのドーハとリヤドの間の関係が、単に緊張関係としてのみ特徴付けられていたのであれば、カタールの「アラブの春」への参加は、地域における対立を、新たなより高い段階へと引き上げた[i]。この時期から、サウジアラビアのカタールに対する厳しい立場と、ペルシャ湾および湾岸協力会議内部での地域政治の内容を決定づけた、カタール外交の四つの基本的方針について述べることができる。第一に、これはカタールによる「ムスリム同胞団」[ii]の支援であり、第二に、アンカラ=ドーハ=テヘランの「枢軸」[iii]の形成であり、第三に、アラブ世界に対するカタールの巨大メディア「アル=ジャジーラ」の衰えることのない影響力であり、そして最後に、イエメンを筆頭とするマシュリクの国々、そして北アフリカ、中央アフリカにおけるカタールの政治的、経済的、軍事的影響力の増大である。カタール外交の成功(そしてそれに伴う、サウジアラビアの一連の戦術的、戦略的敗北)は、これら四つの基本的方針の相乗効果によって条件付けられていると思われる。

 そして、2012年のエジプトにおける「ムスリム同胞団」の勝利は、サウジアラビアでパニックを引き起こした。カタールは、新たなムハンマド・ムルシー大統領の正統性をいち早く承認しただけでなく、彼の支援のための一連の重要な財政および情報面での行動に取り掛かったのである。2012年9月にはすでに、カタールの首相がエジプトを公式訪問し、地中海沿岸での大規模観光ユニットの建設(総額100億ドル)と、さらにはガス精製工場、冶金コンビナートと水力発電所の建設(総額80億ドル)に投資する方針を明らかにした[2]。これと同時期、トルコは、M.ムルシー政府に総額20億ドルの貸付を行っている。

 このほかに指摘しておくべきことは、カタールが活発にその中継を援助している(エジプトでの出来事を専門に扱う特別なテレビチャンネル「Al Jazeera Mubasher Misr」も始動した)普遍的で分かりやすい「ムスリム同胞団」のメッセージは、サウジアラビアの地域的立場にとってだけでなく、王政の存続[1]にとっても現実的な脅威となっているということである。リヤドは、「アラブの春」の出来事の中で、石油が埋蔵されている東部の地域で絶対的多数派を構成するシーア派住民の問題、さらにはサルマン王族による統治の正統性に関する危機に直面することとなった。結果的にサウジアラビアは、「ムスリム同胞団」を完全に禁止し、残る友好勢力や友好国[17, p. 113-134]に対してのみならず、サラフィー主義者[10, p. 155-165]を筆頭とする急進的なイスラム主義者らにも、これまで以上に積極的に支援や資金提供、軍備提供を開始したのである。


[i]  二つの外交危機が、「アラブの春」の当然の結末となった。それらのうちの一つ(2014年の危機)は、クエートとオマーンの仲裁で解決を見たが、二つ目である2017年の危機は、現在も継続している。

[ii]  ロシア連邦で禁止されているテロ組織。

[iii]  カタールが仲介役を果たしているこのような「同盟」は、アメリカとトルコの間の関係に深刻な問題があることによって可能となった。

By KokusaiSeikatsu

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