特集:100年の歴史を振り返る 第一話「創刊」

『国際生活』2022年3月号より(翻訳:安本浩祥)

国の歴史における100年、ましてや世界のなかでの100年というものは、決して短いものではありません。たった一世代の間で時代が変わるような現代では、特にそうだといえるでしょう。一世紀前には永続すると思われた多くのモノが、すでに過去のものとなりました。ソビエト連邦という大国はすでに存在しません。もし存在していたら、今年で100年目を迎えていたはずでした。その代わり、世界地図には15の独立国家が登場し、お互いの関係は単純ではありません。

植民地体制というものもすでに存在しません。二度の世界大戦を経て、世界の中心はヨーロッパからさらに西へ移動しました。かつてヴェルサイユで、そしてヤルタとポツダムで決められた国家間の関係は、いまや違った様相を呈しています。国際システムは二極化し、その後は一極化し、さらには多極化しました。同盟や軍事ブロックが作られては消えていきました。一世紀にわたって行われたこのような変化は、いまや文明のレベルにまで深化しています。

セルゲイ・ラヴロフ外務大臣は、『国際生活』を見れば、「1922年のジェノア会議とラパッロ条約から、欧州大西洋地域、アジア太平洋地域、およびその他の地域における安全保障と協力のための新しい仕組みづくり、紛争解決のための和平工作といった新生ロシアによる外交政策にいたるまで、ほぼ1世紀にわたる我が国の外交の歴史の各段階を振り返ることができます」と書いています。

外務人民委員部の雑誌であった『国際生活』は、1922年3月から発刊されています。その刊行ペースはまちまちでしたが、平均して2か月に一度のペースでした。発行部数もさまざまで、最初の年は500部、その後は2000部にまで増えました。

当時の外務人民委員であったG・チチェーリンは、1923年の号のなかで、「『国際生活』は、外務人民委員部の政治機関であり、ソビエト共和国の外交課題に貢献するものである。ソビエト共和国は、政治経済関係の発展のなかに、現代の深い潮流を見出そうとしている」と書いています。

1923年4月、編集長に就任したF・ロットシュテインは、「現実政治の諸問題に関する学術雑誌とすることを目指している」と書いています。同じ月、G・チチェーリンは自らの論考のなかで、「外務人民委員部の学術政治機関」と指摘し、外務人民委員部のなかで発行されている他の媒体との違いを強調しました。

「1922年3月20日」と記されている創刊号表紙
モスクワのクズネツキー・モストにあった外務人民委員部
初代編集長であるロットシュテイン・フョードル・アローノヴィチ

1922年の創刊当時、国としてもターニングポイントを迎えていました。ネップ(新経済政策)に着手した我が国は、国内においては戦時共産主義の旗を降ろし、海外においては世界革命の旗を降ろしました。闘争への呼びかけに代わって、コンセッション(外国からの投資による営利企業)を含めたビジネス協力の提案がなされたのです。そのような新しい外交政策について発信するために、『国際生活』が必要とされていました。

ネップの市場主義的環境の下で、『国際生活』は、『外務人民委員公報』のように無料で配布されたわけではなく、当時クズネツキ―モストにあった外務人民委員部の建物内で、定額で販売されていました(編集部もその建物内にありました)。

当時の誌面には、N・ヨルダンスキー、M・リトヴィノフ、I・マイスキー、M・パヴロヴィッチ、K・ラデク、G・チチェーリンによる協力があったと書かれています。名前およびペンネームはアルファベット順に記載されているため、編集部において誰がどのような役割を話していたのかは分かりません。しかし、各人の社会的地位については分かっています。G・チチェーリンは外務人民委員(外務大臣)、K・ラデクはコミンテルンのイデオローグ、M・リトヴィノフは人民委員代理、I・ヨルダンスキー、M・パヴロヴィッチ、I・マイスキーは、外務人民委員部の職員でした。特徴的なのは、革命前からレーニンの社会民主党に入っていたのはリトヴィノフのみであり、そのほかは1918年以降の入党であることです。

最初の編集委員の顔ぶれ。左上から時計順に、ヨルダンスキー、リトヴィノフ、マイスキー、チチェーリン、ラデク、パヴロヴィッチ

しかし、雑誌『国際生活』は、ネップの終焉とともに終わりを迎えました。最後に発行されたのが1930年で、当時の国内の雰囲気は、「包囲された要塞」の意識が支配的でした。

当時の世界における評論一般をめぐる傾向を振り返ってみれば、アメリカの指導的な学術雑誌『フォーリン・アフェアーズ(Foreign Affairs)』の創刊が1922年9月であったことは、偶然とは思われません。興味深いことに、『国際生活』と『フォーリン・アフェアーズ』との間には、実務的な関係が構築され、それは良好な関係であったとさえいえるのです。アメリカからは、書評のために論文が送られて来ていました。また、当時の状況が許す限りにおいて、意見交換も行われていました。

外交は、リスクの高い分野になっていました。この少し後には、『国際生活』の筆者を含む、外務人民委員部の職員の大部分が、「人民の敵」としてブラックリストに載ることになるのです。彼らの名前が再び現れるのは、新しく『国際生活』が復刊されることになる1950年代の中盤を待たなくてはなりません。さらにその20年後には、彼らの名前は、スモレンスカヤ広場の外務省のホールの大理石に金文字で彫り込まれることになります。