特集:100年の歴史を振り返る 第二話「復刊」

1953年のスターリンの死後、西側に対する政策をめぐって、激しい議論が巻き起こりました。そのなかで、新しく『国際生活』を外交専門月刊誌として復刊しようという動きが生まれました。その考えは、当時ソビエト連邦外務大臣であったV・モロトフによるものでした。その英語名称は当初そのまま「International Life」とされていましたが、その後、外務大臣になり編集長に就任したA・グロムイコから、「すでにアメリカには『Life』という雑誌があるので、『International Affairs』にしよう」との提案がありました。

ソ連外務省出版局局長のL・イリイチェフからV・モロトフに宛てた1953年9月7日付のメモでは、「ソビエト連邦には、外交政策の問題を包括的に取り扱った専門雑誌がない」と書かれています。

この指摘を引き継ぐ形で、V・モロトフは10月24日、「ソビエト連邦共産党幹部会、G・M・マレンコフ同志、N・S・フルシチョフ同志」の三つの宛先を付して、自らのメモを送付しました。雑誌が果たすべき重要政治課題の一つとして、「公式の出版物よりもより自由に、重要な国際問題の意味を説明し、ソビエト連邦による平和への闘いの意味を特に説明すること」としています。

1953年11月13日付のソ連共産党中央委員会幹部会会合議事録。右上には「極秘」の文字がある。1954年から『国際生活』を発行することを決定した。最後に、「ソ連共産党中央委員会書記 N・フルシチョフ」の署名がある。
1954年に発刊された『国際生活』第一号。「三カ月ごとの発行」と書かれている。

ソビエト連邦共産党中央委員会が発刊を決定し、いくつかの関連する決定が行われました。ソ連共産党中央委員会幹部会は、1953年10月29日に行われた会合で、「政府発行によらない外交専門雑誌『国際生活』」の刊行を検討し、「本問題に関する最終の決定文面案」の作成をソ連外務省に対して依頼しました。11月13日、G・マレンコフが議長を務めた幹部会会合には、V・モロトフ、L・カガノヴィッチ、K・ヴォロシロフ、N・フルシチョフらが参加し、最終決定が行われました。

編集長には、ソ連外務省資料部部長で、科学アカデミー準会員、スターリン表彰を二度受けている、V・フヴォストフが任命されました。

雑誌の発行をめぐっては、「雑誌刊行の全体的な監督をソ連外務省が行う」とした一方で、「『国際生活』の発行は、連邦政治学術知識拡大組織『ズナーニエ』が担う」とする二面性がありました。このソ連共産党中央委員会幹部会の原則決定を、ソ連共産党中央委員会書記局の決定として具体化するために5カ月かかりました。それでようやく、雑誌の刊行への道がひらけたのです。

『国際生活』の第一号には、1954年8-9月と記載されています。内容は完全に、モロトフ哲学に沿ったものでした。創刊号のための巻頭言原稿は、いくつかのヴァリエーションが残されています。7月30日、V・フヴォストフはV・モロトフに対して、「国際的対立の緩和に向けて」と題する原稿を渡しました。モロトフは、すべてのページに修正を書き入れ、いくつかのページについては、まさに戦場ともいえるような状態になっています。青鉛筆で一つの単語を消して、ほかの単語を書き入れ、次にはその単語も消して、さらに他の単語を書き入れる。さらにまたその繰り返し、というような跡が見られます。

いつの日にか、優秀な研究者が、この鉛筆の跡を層ごとに分析して、当時の外務大臣が「対立の緩和」をどのように理解していたのか、解明してくれるかもしれません。当時は、平和共存の中で、モスクワの外交路線の将来が模索されていた時期でした。雑誌『国際生活』は、この模索の中で重要な役割を果たしました。

執筆陣にも、ソ連の評論界・学術界の大物が集結しました。戦後評論の立役者であるYu・ジューコフは、アメリカの力による政策を批判しています。D・マリニコフは、「平和への脅威としてのドイツ軍国主義」と題する論文を寄せています。そのような調子の論文が続く中で、創刊号にはすでに、その後の新しい時代を感じさせるものもあります。当時の他の刊行物よりも、平和共存、協力、軍縮などの言葉が目立っています。白眉であったのは、偉大なロシア史家であるエヴゲーニー・ヴィクトロヴィッチ・タルレの論文が掲載されたことです。完璧な言葉で書かれた彼の論文は、まさに別の時代からやってきたような印象を与えます。タルレは当時、刊行されることがほとんどありませんでしたが、『国際生活』誌上にその論文が掲載されたことは、新しい精神を担う雑誌としての役割を自負するものであったと思われます。