特集:100年の歴史を振り返る 第三話「平和共存からグロムイコ時代」

1956年8月25日、外務省からの提案に沿って、L・イリイチェフを編集長とする決定が、ソ連共産党中央委員会によって行われました。スターリン時代、彼は『イズベスチア』紙及び『プラヴダ』紙の編集長、さらにはソ連外務省出版部部長を歴任しました。

編集委員の顔ぶれも変わります。ソ連外務省出版部部長のM・ハルラモフ、歴史家でアカデミー会員でもあるE・ジューコフ、『赤い星(クラースナヤ・ズベズダ―)』紙の元編集長であるN・タレンスキー、ソ連共産党中央委員会国際部副部長のV・コリオノフが加わりました。この時期、編集委員の名前は誌上で公開されていました。L・イリイチェフは、平和共存という当時の指導部の考えの担い手であった『国際生活』に、新しいプロパガンダ色を与えました。第一に、平和共存はイデオロギーの次元には適用されないこと、第二に、平和共存は階級闘争の一形式であるということです。

1954年から2009年の歴代編集長 左上から時計周りに、フヴォストフ・ウラジーミル・ミハイロヴィッチ(初代)、イリイチェフ・レオニード・フョードロヴィッチ(第二代)、ピャーディシェフ・ボリス・ドミートリエヴィッチ(第四代)、グロムイコ・アンドレイ・アンドレエヴィッチ(第三代)

L・イリイチェフは、1990年に亡くなる前、当時彼は外務次官でしたが、再び『国際生活』に復帰し、「海外で我々を代表する人々について語ろう」というコーナーを担当。ソビエトの在外公館での勤務の質や効率を向上させるための議論が誌上で展開されることとなります。

1958年6月、ソ連共産党中央委員会は、外務大臣その人を『国際生活』の編集長に任命します。

史上初:『国際生活』の編集部に各国のモスクワ特派員が集結。

A・グロムイコの27年に及ぶ長い編集長時代のはじまりです。この間、編集長としての仕事は主にリモートで行われました。1958年の7月号から、編集委員及び編集長の名前は再び、誌面からは消えてしまいます。『国際生活』の編集方針、執筆陣、内容はより定まったものになり、いうなれば、よくしつけされたもの、となりました。かなりオブラートに包んだ形であっても、外務省の公式見解や政府見解から外れたことをいうことはできませんでした。ここにもまた、この雑誌の魅力と価値があると言えます。週末のお気楽な読み物ではなく、公式見解が正確に、真剣に、示されている媒体なのです。ここにこう書いてあるなら、実際にもその通りだ、というわけです。国内外の政治家、専門家、学者などにとって、そのような正確な出典をもつことは有益なことです。

確かに厳しい制限はありつつも、そのなかでも、言論界として興味深い記事も掲載され、V・クドリャフツェフ、V・マエフスキー、V・マトヴェエフ、V・ミハイロフ、V・ネクラーソフ、E・プリマコフ、F・セイフリ=ムリュコフ、M・ストゥルア、G・トロフィメンコ、O・ボゴモロフ、K・ブルテンツ、N・イノゼムツェフ、V・イスラエリヤン、T・チモフェエフ、S・チフヴィンスキー、V・トルハノフスキー、N・ヤーコヴレフ、A・ヤーコヴレフといった「黄金の筆」と呼べる人々が執筆陣に加わりました。

『国際生活』が主催する円卓会議では、ロシアの外交政策の方向性が決められた。

署名記事の中に、A・サヴェートフ及びP・ゴロホフというペンネームがありますが、これは『国際生活』編集部としてのペンネームとして使用されました。サヴェートフというペンネームは、何かをする前に「相談(サヴェート)」し合う、ということに由来します。編集部では、職員、幹部との相談(サヴェート)を経て出した記事ということで、「A・サヴェートフ」という署名を使っていました。

もうひとつのペンネーム、ゴロホフですが、これは編集部の住所、ゴロホフ通り(pereulok Gorokhovskiy)をとって、P・ゴロホフとしたものです。このペンネームが使われるのは、筆者が一人、二人、又は三人の場合で、名前を明かしたくない場合、もしくは名前を隠すことでわざと記事に重みを与えたい場合に使われました。Sh・サナコエフ、N・カプチェンコ、N・ホムトフ、T・イエヴレワ、T・コレスニチェンコも、このペンネームを使いました。

誰がそのようなことを思いついたのか、いまでは知る由もありませんが、ジャーナリズムの世界において、ユーモアのセンスがいつでも大切にされていること、これには敬意を表するべきでしょう。

A・グロムイコが1985年にソ連最高会議幹部会議長に指名された際、外務大臣のほかに、さらに18の役職を抱えていたと言われています。そのうち17の役職についてはすぐに辞任したものの、『国際生活』の編集長については、留任を願い出たといいます。

1985年、シュワルナゼが外相になってからも、アンドレイ・アンドレエヴィッチ(グロムイコ)は、編集長として数年とどまりました。しかしシュワルナゼは、アンドレイ・アンドレエヴィッチが最高会議幹部会議長と編集長という二つの役職を兼務するのは難しいと考えており、M・ゴルバチョフも同じ考えでした。そのため、最高会議の業務に専念するようA・グロムイコを説得すること、そして編集長の後任を見つけることとなりました。

S・V・ラヴロフ外相と『国際生活』の職員、執筆陣、友人たち。記念パーティーにて。

この件で本人の説得役にあたったのがA・ヤーコヴレフで、グロムイコは口頭では納得したようでした。しかし彼の人生の多くの時間が結びついているこの雑誌に大きな愛着を持っていたグロムイコは、本音では辞めたくはなかったのです。しばらくして、E・シュワルナゼの報告によれば、「アレクサンドル・ニコラエヴィッチ(ヤーコヴレフ)が再びグロムイコと話す。再び納得した様子ではあるが、署名での同意はまたとれなかった」という。三度目の話し合いの後、書面ではなく、結局は口頭での辞職願、ということで落ち着いたようです。

この前日、E・シュワルナゼはM・ゴルバチョフと会談し、「現代政治のより多くの課題に応えるため、雑誌には新しい息吹きが必要である」ことを確認していました。シュワルナゼは空席となった編集長職に、B・ピャーディシェフを提案しました。ゴルバチョフはピャーディシェフを知っており、彼が適任であると思うと述べて、同意しました。

1987年11月16日のソ連共産党中央委員会書記局会合にて、『国際生活』第四代編集長として、特命全権大使でロシア外務省参与、そして歴史学博士でもあるB・ピャーディシェフを指名することが決定しました。