ウラジスラフ・グーレヴィッチ 『国際生活』解説委員

ポーランドのマルチン・プシダチ外務次官が『エコー・モスクワ』に行った最近のインタビューは、ポーランドの東方政策 (polityka wschodnia) (1) についての基本原則を手短にまとめたものと見ていいだろう。基本的には、ロシアとロシア文化への敵対的関係を基調としながら、かつてはポーランド・リトアニア共和国によって占領されていた旧ソ連共和国であるウクライナ、ベラルーシ、リトアニアに対するポーランドの影響力拡大を狙っている。

これは、17世紀~19世紀、さらには20世紀初頭にかけて、ポーランドとロシアとの関係が最も先鋭化した頃に採用された政治信条に則ったものだ(1612年のポーランドのモスクワ遠征、1794年、1830年、1863年のポーランド蜂起、1812年のナポレオンのロシア遠征へのポーランドの参加、1920年のソ連・ポーランド戦争)。

ポーランドの価値観においては、ロシア人、タタール人、フィン・ウゴル人(ウドムルト人、マリ人、モルドヴィン人など)は一段と低い民族と見られてきた。カッコ内の諸民族についてポーランド人はフィン・ウゴル人とひとくくりに考えており、ポーランドの政治思想において彼らの民族的違いを考えることは必要ないとされている。ロシア人とタタール人およびフィン・ウゴル人が近接していることは、ポーランドの知識人らから、あたかも遺伝的欠陥であるかのようにさえ見られてきたのだ。

ポーランドロマン主義の三大巨頭の一人であるジグムンド・クラシンスキでさえも、そのような民族的高慢から自由ではない。ポーランド人たちはロシアとその諸国民を、「モスクワ・タタール小民族」とか「モスクワとそのタタール兄弟たちの未開人」と呼んできた (2)。もちろん、当時の時流のなかで人種差別意識はヨーロッパの意識のなかで分かちがたく結合していたが、ポーランドは黒人差別、赤色人種差別をそのまま、ロシア人とタタール人、フィン・ウゴル人に対する偏見へと引き継いだのである。

そのような歴史的背景があるなかで、ポーランドの歴史家や外交官らは今日に至るまで、自らの東方政策が東側の諸国民に善と自由をもたらすものと考えているのは驚くべきことだ。ワルシャワ政府は自らの東方政策を倫理的な動機に基づいていると主張しているが、実はその中にある人種差別の要素がアキレス腱であることは多くの場合見落とされている。

ポーランドとロシアとの関係は、ポーランド側からは自由と隷属、光と闇、善と悪、高貴さと卑劣さという価値的枠組みのなかで捉えられてきた。もしこのなかに「人種主義と国際主義」という価値を導入するならば、ポーランドが背負っているのは前者であり、ロシアは後者にあたる。ポーランドの東方政策は歴史的にも人種主義に基づいているが、現代においては反ロシア感情のイデオロギーのなかに吸収されてしまっている。

17世紀にはすでに、ポーランドの軍事政治思想において、ロシアへの敵対的関係を正当化する価値観が生み出されている。歴史家のヤヌシ・タズビル(Janusz Tazbir)は著書『シュラフタとコンキスタドール』(Janusz Tazbir, Slachta a konkwistadorzy)のなかで、「ポーランドのシュラフタはルーシを自らのアメリカと見なし、鉄の手で先住民を侵略したスペイン人の例に従って、ロシアの未開人を殺戮し、植民地化しなくてはならないと考えていた」と指摘している。

18世紀から19世紀にかけて、ポーランドとロシアとの関係について、体系的な思想が根付いたといえる。これはのちにポーランド地政学と呼ばれるようになるものだ。この時期において最終的に、「民族の継ぎ目」に沿ってロシアを分裂させるという考えが生まれたのである。そしてポーランド人は、「ロシアのくびき」から非ロシア民族を「解放する」という神話を生み出したのである。

20世紀、そのような考え方は具体的な地政学的プロジェクトへと発展する。メジドゥモーリエ(海の間;バルト海と黒海の間に反ロシア陣営を作り出す)、ULB(ウクライナ、リトアニア、ベラルーシにおいて民族運動を支援する)、四つの民族による共和国(ポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナによる反ロシア同盟)などである。

今日のポーランドによる旧ソ連地域に対する外交は、まさに上記の東方政策を発展させたものに過ぎない。ワルシャワ大学東欧研究センター(Studium Europy Wschodniej)の公式の系譜には、1926年から1939年まで存在したワルシャワの東洋学院(Instytut Wschodni)とヴィリニュスの東欧学術研究所(Naukowo-Badawczy Instytut)が挙げられている (3)。この二つの研究所は、戦前のポーランドにおけるきわめて反ロシア的な政権に仕えた機関であり、そのようなイデオロギーを強く持っていた。

ソ連崩壊後のポーランドの東方政策の前提となっているのは、反ソ地下雑誌であった『陣営(Ob?z)』(1981年創刊)である。この編集長であったイェジ・タルガリスキ(Jerzy Targalski)は、歴史家であり政治学者であるが、時事評論を行う中で、きわめて正しい判断を行っている。つまり、時代と政治局面は変化するものにもかかわらず、ポーランドの東方政策は、何世紀も前と変わらず、硬直的なものにとどまっている、という指摘だ。

ポーランドがすべての東の隣国と敵対的もしくは緊張関係にあることは驚くべきことではない。ベラルーシとロシアとの間では、その統合をめぐって対立し、ウクライナとはロシアで非合法とされているウクライナ民族主義蜂起軍のカルト問題で対立しており(そもそもポーランドがウクライナの民族主義を支援したことに端を発する)、リトアニアとは、国内のポーランド人をその文化的拡張主義への警戒感と同一視されていることで対立している。

ヤン・エンゲルガルドは『ポーランドの思想(My?l Polska)』のなかで、「我々はすべての人と戦争状態にある。オットー・フォン・ビスマルクは、ドイツが二正面戦争を行わないように注意した。我々はいま五つの戦線を抱えているのだ」 (4) と嘆いている。ロシアとドイツとの間でポーランドは、「ノードストリーム2」をめぐって対立しており、イスラエルと米国との間ではホロコーストで放棄されたポーランドのユダヤ資産をめぐって対立しており、EUとの間ではポーランドの政治システムをめぐって対立している。さらに、主要な同盟国である米国の新しい大使であるマーク・ブジェジンスキを拒否することによって、新たな火種を生み出している。ワルシャワは歴史に学ぶことができないらしい。

ポーランドの東方政策においては、ロシアとその同盟国への敵対以外、いかなる言葉ももたない。今日、ポーランドが反ロシア感情にあれだけこだわっている背景には、歴史的にポーランドが侵略的な東方政策を展開してきたことがあると言っても過言ではない。しかし、人種主義と拡大主義のイデオロギーに基づいた地政学は、平和と繁栄をもたらすことはできない。ポーランドのエリートはそれを認識すべき時だろう。


 ※筆者の意見は、編集部の意見とは必ずしも合致するものではない。

1) https://echo.msk.ru/programs/beseda/2869824-echo/

2) Bohun, Micha? Oblicza obsesji – niegatywny obraz Rosji w my?li polskiej

3) https://studium.uw.edu.pl/historia/

4) https://myslpolska.info/2021/06/29/mamy-wojne-ze-wszystkimi/

By KokusaiSeikatsu

『国際生活』はロシア連邦外務省を発起人とする、国際政治、外交、国家安全保障の問題を取り扱う月刊誌です。創刊号は1922年、『外務人民委員部週報』として出版され、1954年に『国際生活』として、月刊誌として復刊しました。今日、ロシア国内だけでなく、世界各国においても幅広い読者を獲得しています。