アルトゥール・ボガチョフ、ヴィターリー・チュマコフ (翻訳:安本浩祥)

2020年10月3日、ヨーロッパにおける北大西洋条約機構の指導的加盟国であるドイツは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の統一30周年を迎えた。最近公開された米国務省の文書から、1990年のソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフと西側諸国のパートナーたちとのドイツ統一についての交渉のなかで、ドイツ国民と北大西洋条約機構の運命が決まっていった経緯が明らかとなった。


2020年は、東西ドイツ統一から30周年である。ドイツはいまや北大西洋条約機構(NATO)において中心的役割を果たしているが、そのNATOは昨年、設立70周年を迎えた。ブリュッセルで開催されたNATO国防相会合で、ジェームズ・マティス米国防長官は、「史上最も成功した軍事同盟」1とNATOを評価している。

NATOにとっての最も大きな成功は、1990年の東西ドイツ統一交渉の中から生まれた。1990年、ソ連大統領のゴルバチョフと西側諸国の間では、東西ドイツの統一に関する交渉が行われ、この交渉こそが、その後のドイツ国民の運命を決定し、さらにはNATOの運命をも決定したのである。その詳細な経緯が、最近公開された米国務省の外交資料から明らかになった

ロシアで定説となっているのが、当時西側諸国は交渉の中でNATOの不拡大を約束した、というものだ。同じく定説として、ゴルバチョフはその口約束を文書の形で残さなかった、とされている。しかし今回の新資料から明らかになったのは、当時のソ連指導部が、そのほかにもたくさんの間違いを犯したということである。こんにち、NATOの加盟国が30カ国にまで拡大し、その軍事施設がロシアの国境のすぐそばまで迫っているという状況を生み出したのは、まさにソ連指導部が犯した間違いが今に至るまで尾を引いている結果なのである。1990年代には東欧のNATO加盟が問題となり、いまでは、旧ソ連構成共和国にまで、NATOは勢力を伸ばそうとしている。

そもそも、西側諸国がNATOの不拡大を約束した、ということは今では否定されている。西側の政治家たちだけでなく、当時のソ連側関係者らさえも、そのような約束はなかったと証言しているのだ。例えば、2014年11月8日、ドイツ第二放送(ZDF)のニュース番組「今日のジャーナル(Heute Journal)」は、ゴルバチョフとヤーゾフのインタビューを放送している。

このインタビューのなかでゴルバチョフは、ドイツの統一と引き換えに、NATOは東方に拡大しないというような約束は、誰もしていない、と語った。「当時はまだワルシャワ条約機構が存在しており、これは問題にならなかった」とゴルバチョフは説明している。彼によれば、1990年の「2+4」条約のなかで約束されたのは、旧東独地域に核兵器とNATO軍を配置しない、ということであり、数年間でドイツ連邦軍の定員を削減する、ということだった。「そしてその約束は果たされた」とゴルバチョフは語っている。「ゴルバチョフは交渉で西側諸国に騙された」という見方は神話に過ぎないのか、という質問に対してゴルバチョフは、「まさに神話だ。メディアが作り上げたものだ」と答えた。ヤゾフはインタビューのなかで、「(NATOの不拡大に関する)そのような話し合いは一切なかったように思う」と話している。

以上のことから考えられるのは、次の2つのことだ。まず第一に、NATOの不拡大を約束したような文書は一切存在しない。それは法的拘束力のない声明の類を含めて、一切存在しないのだ。第二に、そもそもNATOが不拡大を約束したという見方が生まれたのは、ドイツ最終規定条約(いわいる「2+4」条約)の条文を誤って解釈したためなのではないか、ということだ。第5条3項には、「外国の軍隊および核兵器またはその運搬手段は、(ソ連軍撤退後)ドイツの当該地域(東独)に配備、展開してはならない」とある。

ところで、ドイツ連邦共和国外相のハンス=ディートリッヒ・ゲンシャーが1990年に行った演説の録画が残っている。この録画資料のなかで彼は、NATOが不拡大を約束した、と明確に述べている。「我々はNATOが東に向かって拡大しないことで合意した。我々はドイツ民主共和国を乗っ取ろうと思っているわけではない。NATOはいかなる場所においても、これ以上拡大することはない」とゲンシャーは話している。こうなると、そのような合意はなかったとするゴルバチョフとヤーゾフの証言は、現実と矛盾することになってしまう。

東西ドイツ統一とNATO加盟に関する米ソ交渉は、1990年2月初旬に始まった。まずは、その米ソ交渉にいたる経緯を明らかにしておこう。

1980年代はドイツ国民にとって、東西ドイツが積極的に接近した時期であった。ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国の間では、経済的、学術的、文化的協力が進展していた。1987年9月7日に東独のホーネッカー議長が西独を訪問して以降、相互交流はますます活発になった。東西ドイツの関係改善を象徴するのが、東独市民による西独訪問数の増加である。1989年の最初の6カ月間で約290万人が西独を訪問し、前年比15.4%となった。

しかし、両国間で対話が進むのと同時に、ドイツ民主共和国の経済状況は悪化の一途をたどる。そのため、西独に逃亡する東独市民の数も増えた。その背景には、国境に設置されていた対人地雷や自動射撃装置が撤去されたこともあった。

1989年9月、東ドイツは政治危機を迎えた。東独から西独への自由な渡航を求める声(当時はビザが必要)が、大規模な反政府デモへと発展したのである。ホーネッカーはデモの要求をはねつけ、辞任を余儀なくされた。11月からはモドロウが国家評議会議長となり、西ドイツとのさらなる接近を図った。

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この中で、1989年11月9日にはベルリンの壁崩壊という大事件がおこり、東独から西独への移動が自由になった。同じ年の11月28日には、西独首相のコールが、東西ドイツ協力発展計画、いわいる「コール十項目」を発表。その中では、両ドイツ統一を見据え、ドイツ民主共和国の市場経済への移行がうたわれていた。

この動きは、パリ、ロンドン、モスクワからは警戒感をもって受け取られ、ドイツ民主共和国からも激しい批判にさらされた。大国が危惧したのは、ドイツが再び強大になり、コントロールできない存在になることだった。ゴルバチョフは12月9日のソ連共産党中央委員会総会で演説し、次のような声明を発表した。「主権をもつ二つのドイツ国家が存在し、ともに国連加盟国であるということ。戦後に生まれたこの現実を前提としなくてはならない。この前提から離れることは、ヨーロッパの不安定化につながるおそれがある」8

しかし、「主権をもった2つのドイツ国家」の統合プロセスはその後も続き、あきらかに米国はこの動きを支援していた。12月19日から20日にかけて、モドロウとコールは東西ドイツ間でビザを廃止すること、西ドイツ市民がドイツ民主共和国に入国する際に通貨交換を義務付けることで合意し、また、ドイツ民主共和国マルクをドイツ連邦共和国マルクに交換する際には3対1の比率とすることを定めた9

ドイツ民主共和国がドイツ統一をどう考えていたのかを知る資料として、ドイツ統一に関するモドロウによる提案をあげることができる。モドロウによる提案は1990年2月1日に発表されたもので、段階的接近と対等な協力関係を唱えたものだった。具体的にはまず第一段階として、ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国による「合意による共同体」を創設すること。第二段階として、二つの主権国家の連邦化によって、経済関係およびその他の関係を発展させること。第三段階では、ドイツ連邦、もしくはドイツ同盟10を成立させること、であった。そのように、モドロウ・プランにおいては、ドイツ統一という基本路線は変わらないが、早急すぎる統一プロセスにブレーキをかけるという目的があった。またこのプランは、ドイツ連邦共和国憲法第23条と完全に矛盾するものだった。ドイツ連邦共和国憲法第23条においては、ドイツ民主共和国、またはその領土の一部を、ドイツ連邦共和国に編入する際、移行期間として何らかの連邦的関係を持つことは想定されていなかったのである。

しかも、ドイツ民主共和国の立場は、その後の交渉の中で事実上無視された。それは、モドロウ政権が国内での求心力を急速に失い、ドイツ連邦共和国としては、3月の東ドイツでの選挙の結果を待ってから判断したいという当時の状況にもよるものだった。コールの読みは当たった。モドロウに代わって、ロタール・デメジエールが政権の座に就き、ドイツ連邦共和国憲法第23条による東西ドイツ統一へと傾いたからだ。

このような状況の中、1989年12月上旬の時点でドイツ統一に反対していたゴルバチョフは、1990年2月上旬の時点では、ソビエト連邦がドイツ統一を容認するための条件について話し合う準備があることを示したのである。

1990年2月9日から10日にかけて、ドイツ統一プロセスとその後のNATOの将来について、方向性を決める二つの会談が行われた。一つは、ゴルバチョフと米国務長官ベイカーとの会談、もう一つは、ゴルバチョフとコールとの首脳会談である。

モスクワで開催されたゴルバチョフ・ベイカー会談については現在、米国務省のサイト上で、米国側の報告メモ11とソビエト側のメモ断片12の英語資料が公開されている。二つの資料を比較してみれば、その違いはわずかなものであり、主にそれは文体上の違いによるものである。それはつまり、通訳の際に避けては通ることのできない文体上の違いに由来するものと判断できる。内容的にいえば、非常に重要な点として3つを挙げることができる。

第一に、ゴルバチョフは開口一番、ソビエト連邦が直面している経済的および財政的困難についての話を始めたことである。1990年の始めの時点で、ソ連経済が行き詰っているのは明らかだった。1988年以来、国民経済の成長が止まり、生産は低下していた。1988年に408億ルーブルだったソ連の国家債務は、ローン債務を除いても、1989年にはすでに920億ルーブルに達していた。国内ではインフレと商品不足が始まっていた13。状況改善の糸口は見えず、ゴルバチョフ・ルイシコフ経済改革は失敗し、世界の石油価格は下落していた(1985年の1バレル30ドルに対して、1990年には18ドル)14

このような経済問題を抱えていた上に、ゴルバチョフはさらに重大な間違いを犯していた。それは、ドイツ問題を話し合う際に、自国の経済問題を持ち出したことである。ゴルバチョフは自国の弱点をさらけ出しただけでなく、ドイツ統一問題とソビエト経済の安定化問題とを結びつけてしまった。この重大なミスは、ドイツ問題の交渉全般にわたって、大きく影響することになる。

第二に、ベイカーが会談中、ゴルバチョフに対して、次のような踏み込んだ質問をし、即座の回答を求めなかったことである。ベイカーは、「統一後のドイツがNATOに加盟せず、完全に独立し、領土内にも米軍を駐留させないという選択肢。もしくは、NATOの法的範囲と駐留軍が現在の国境よりも東に拡大することはないという保証の下に、統一ドイツがNATOとの関係をもつという選択肢。どちらが望ましいか」15とゴルバチョフに質問したのである。

ゴルバチョフは明確な回答を避けたが、その発言内容からして、二つ目の選択肢に傾いていることは明らかだった。特にゴルバチョフは、「NATOの勢力拡大は受け入れられない」とする一方で、ドイツにおける米軍駐留が「抑止的役割を果たす可能性」を指摘している。この点、ゴルバチョフは二つ目の地政学的間違いを犯した。つまり、統一ドイツにおけるNATOの活動を排除するための歴史的チャンスを逃したわけである。

ゴルバチョフがNATOの拡大は受け入れられないと発言したことについて、ベイカーの解釈が興味深い。1990年2月9日付のコール宛ての書簡にて、ベイカーはゴルバチョフとのやりとりに触れ、「おそらく、NATOの現在の勢力圏については受け入れ可能なのだろう」と指摘しているのである16

第三に、ベイカーは、米国政府およびブッシュ大統領個人があらゆる手段でもって、ゴルバチョフの改革路線を支持し、可能な限りの援助を惜しまないつもりだ、と約束していることである。この会談中だけでも、ベイカーは二度にわたってそのような援助を約束しており、ゴルバチョフに一定程度の影響を与えたと思われる。

ベイカーはこの会談で達成した「成果」について、即座に、ドイツ連邦共和国首相のコールに連絡している。その結果、ゴルバチョフとの会談中、コールは次の二点を強調し、それはまさにゴルバチョフが彼の口から聞きたかったことだったのである。つまりコールは、NATOの東への拡大に反対であるという自身の立場を明確にしたうえで、ゴルバチョフに対し、ソビエト連邦が直面している経済問題について、秘密会合の形で協議する準備があることを約束したのである17。コールにとっては、ドイツ統一について具体的な話し合いをもったというその事実だけでもすでに重要なことであった。というのも、2か月前にはまだ、ゴルバチョフはドイツ統一を頭から否定していたからである。

1990年2月10日、ヴァレンチン・ファーリン(当時、ソ連共産党中央委員会国際部部長)はゴルバチョフに対して報告メモを送り、ドイツ統一に関してソ連、ドイツ民主共和国、ドイツ連邦共和国の間で原則的な意見の相違はあるものの、ソ連にとって受け入れ可能な案は「4+2」だけであり、ドイツ連邦共和国が提案している「2+4」の案は、英ソ仏という戦勝国の権利を無視するものである、との考えを示した。

専門家らの意見では、ドイツ最終規定条約(「2+4」の形でのドイツ統一)は、戦勝国としてのソ連の権利を消滅させる一方で、敗戦国として負うべき義務からドイツを解放するものとされていた。個人の戦争責任でさえ時効は適用されないにも関わらず、ドイツに対しては国全体に対して時効が適用されようとしていると、彼らの目には映ったのである18

1990年2月13日のオタワ交渉に向けて、ゴルバチョフは外相のエドワード・シュワルナゼに対して同様の内容で指示を出した。シュワルナゼは、ベイカー、ゲンシャーをはじめ、イギリス、フランス、ワルシャワ条約機構各国の外相らと一連の会談および交渉を実施し、「2+4」の案に合意した。

シュワルナゼがなぜゴルバチョフの指示に従わなかったかについて、ファーリンは自らの著書『政治的回想録』のなかでシュワルナゼの次の発言を引用している。「ゲンシャーに懇願されたからだ。彼に頼まれたら断れない」19

1990年2月21日、プラヴダ紙のインタビューでゴルバチョフは、「(ソ連国民は)ドイツ統一によって我が国がいかなる倫理的、政治的、経済的損害も被ることがないよう期待する生まれながらの権利を有しており、また実際にそのような損害を被ることがないよう策を講じることができる」と語っている20

しかし結果として、まさにそのような損害をソ連は被ったわけであり、それはソ連の継承国家であるロシアも同様である。すでに述べたファーリンの意見に逆らって、ゴルバチョフは5月~6月に実施された米ソ交渉のなかで、統一ドイツのNATO加盟を容認した。たしかに交渉におけるソ連の立場は弱くなっていたとはいえ、それでもまだ、統一ドイツのNATO加盟については反対することができたのである。

当時、ソ連第一副外相で、1990年5月から駐米大使をつとめたベススメルトニフは自らも参加した米ソ交渉についての回想のなかで次のように述べている。「ゴルバチョフが提案したのは、ドイツのNATO加盟を完全に認めながらも、外交的ヴェールでそれを覆い隠すというものでした。彼はそれで窮地を脱することができると考えていたのです。彼はブッシュとの会談中、どの陣営に属すかは統一ドイツ自身が決める、という文言を最終文書に加えようと言いました。しかしブッシュは、そうではなく、米国はドイツのNATO加盟を断固として支持するが、ドイツが違う道を選択したとしてもそれを受け入れる、という風にしようと答えたのです。ゴルバチョフは分かったと言いました」21

1990年7月16日、アルヒズで行われたコール=ゴルバチョフ会談で、ソ連側は完全に敗北した。ソ連はすでに多くの譲歩を重ねてはいたものの、まだ最後の切り札が残されていた。それは合法的に東ドイツに駐留する33万人以上に上る西部軍集団である22。そのほか、コールに対して提案するためのいくつかのシナリオがゴルバチョフのために用意されていた。しかし会談を終えたコールは、「統一ドイツは自らの主権に基づき、何らかの軍事同盟に参加するかどうか、参加するのであればどの軍事同盟に参加するか、自由かつ自主的に決めることができる」23と声明したのである。

この交渉がコールにとって大成功だったことに疑問の余地はない。確かにソ連側は、安全保障とドイツのNATO加盟が問題であるとしていたが、コールはすべてカネで解決できることを知っていたのである。これはあまり明確に指摘できるものではないと思われるかもしれない。しかし、1990年2月24日に、コールとブッシュがキャンプ=デイヴィッドで行った会談のメモ24を見れば、このことは明白なのだ。

コールはブッシュおよびベイカーとの会談のなかで、統一ドイツの将来とそのNATO加盟について話し合った。いくつかの重要な点を指摘しておく。

第一にブッシュははっきりと、「フランスの繰り返し」(つまり東西ドイツ統一後に西独がNATOを脱退すること)は考えたくもないと言っている。米国は、ドイツが統一後NATOを脱退することによって、ヨーロッパにおける米国のプレゼンスが急低下することを危惧しており、NATO自体が解体することもありうると考えていた。

第二にコールはそれに対し、ゴルバチョフはNATO問題について何か自分の意見があるかもしれないが、「結局のところカネの問題であり、彼ら(ソ連)はカネを必要としている」25と指摘している。会談中コールは繰り返し、目的達成のためにはソ連に対する経済援助が有効であるとの考えを述べている。例えば、難民を抑制するため東独への投資計画を説明していたコールは、「人々が家にとどまるようにするためには、ちゃんとしたお金が手に入るようにすることだ。まさに同じ問題にゴルバチョフは直面している」26と話している。

第三に、ソ連がドイツのNATO加盟に反対した場合のことを議論する中で、ブッシュは次のように述べている。「懸念しているのは、ドイツがNATOにとどまるべきではない、というような声があることだ。そんなこと聞きたくもない。勝利したのは我々であって、彼らではない。ソビエトが最後に大逆転するなど許してはならない」27。ブッシュのゴルバチョフに対する態度には、2月9日にベイカーがゴルバチョフとの会談のなかで話していたような友好的態度などみじんも見られない。

第四に、ドイツ問題の議論の締めくくりとして、コール、ベイカー、ブッシュは、ドイツを引き続きNATOの正式加盟国とすることで合意した。コールは、ソ連がそれと引き換えに何かを要求するだろうと指摘した。ブッシュはそれに対して、「あなたにはカネはたんまりあるでしょう」( «You’ve got deep pockets» )28と応じている。ちなみにその後、ソ連側が要求した「手切れ金」は、西独側が用意していたよりもかなり少ない額だった(西独が想定していた1億マルクに対して、たったの約1,700万マルク)。しかもそのカネは、東独からのソ連軍撤退を実施する際、ドイツの下請け業者への支払いに充てられた。

この会談を見ても、すでに我々が指摘したゴルバチョフによる地政学的判断ミスが確認できる。つまり、東西ドイツ統一とそのNATO加盟をめぐる交渉において、西側諸国に、「ソ連との重要な政治問題はすべてカネで解決できる」という意見を根付かせてしまったのだ。自身の弱点を最初から見せたことによって、ソ連は対等なパートナーではなく、弱みを握られる形となったである。

またすでに指摘した通り、ゴルバチョフはベイカーが与えたチャンスを生かさなかった。会談の記録から判断するに、ゴルバチョフは自らが望めば、ドイツのNATO加盟を拒否することもできたのである。

最後に、第三の、最もよく知られているゴルバチョフの間違いは、NATOがこれ以上拡大することはないという西側の約束を文書の形で残そうとしなかったことである。その結果、こんにちのロシア外交は、NATOがロシアの国境に迫ってくるのに対して、当時の会談記録の類を持ち出すことしかできないのだ。

本稿の結論として強調しておきたいのは、1990年の時点でソ連は、NATOに対して深刻な地政学的ダメージを与えることが実際にできたということである。それはその後にNATOが果たすことになる役割を、大きく制限するものになったかもしれない。ベイカーは統一ドイツをNATO内に留め置くことの重要性を指摘するなかで、もしドイツがNATOに加盟しない場合、必ずや強力な軍隊と核兵器を保有しようとするだろうと述べている。しかしこのことは、全欧安全保障協力機構という理想の実現を後押しする結果となったに違いない。

全欧安全保障協力会議(CSCE)の制度化のなかで、非ブロック国としてのドイツは、欧州での新しい安全保障システムの土台となり得ただろうし、そうなればヨーロッパ全体が、軍事同盟の対立という論理から解放されていたはずだ。類似のプロセスとしてあげられるのが、オーストリア、ハンガリー、イタリア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアによるペンタゴナーレである。これは政治、社会、経済、文化におけるサブリージョナルな協力を目指すイニシアティブである。少なくとも、そのような協力が進んでいれば、NATOやワルシャワ条約機構などといった陣営としての機構はその重要性を失っていただろう。またこれは、ゴルバチョフ自身が提案していた「ヨーロッパ共通の家」という構想とも合致するシナリオになったはずである。

ソビエト末期の外交は図らずも、その後のヨーロッパ秩序を決定するものとなり、この秩序は、ソ連の継承国家であるロシアにとって非常にやりにくいものとなった。当時の政策判断が違ったものであったとしたら、または合意事項が少なくとも文書の形で残されていたとしたら、冷戦後の世界政治はまったく違ったものになっていたかもしれない。

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1Министр обороны США: НАТО – самый успешный военный альянс в истории // EurAsia Daily // URL: https://eadaily.com/ru/news/2017/02/15/ministr-oborony-ssha-nato-samyy-uspeshnyy-voennyy-alyans-v-istorii

2NATO Expansion: What Gorbachev Heard // The National Security Archive // URL: https://nsarchive.gwu.edu/briefing-book/russia-programs/2017-12-12/nato-expansion-what-gorbachev-heard-western-leaders-early

3Горбачеву никто не обещал не расширять НАТО // YouTube // URL: https://www.youtube.com/watch?v=EfyWWL9PnpA

4Договор об окончательном урегулировании в отношении Германии [Текст] // Министерство иностранных дел ФРГ // URL: https://www.auswaertiges-amt.de/blob/243466/2851e102b97772a5772e9fdb8a978663/vertragstextoriginal-data.pdf

5Wir haben Russland in die Zange genommen – Hart aber fair? 08.09.14 // URL: https://www.youtube.com/watch?v=-d21YGBeaKU

6Павлов Н.В. История внешней политики Германии. От Бисмарка до Меркель // М.: Международные отношения, 2012. С. 542.

7Helmut Kohl’s Ten-Point Plan for German Unity (November 28, 1989) // URL: http://germanhistorydocs.ghi-dc.org/sub_document.cfm?document_id=223

8Материалы Пленума Центрального комитета КПСС. 9 декабря 1989 г. М.: Политиздат, 1989. С. 20. Также см.: Польнов М.Ф. Объединение Германии и политика М.С. Горбачева // Общество. Среда. Развитие (Terra Humana). 2011. №2. С. 57-62 // URL: https://cyberleninka.ru/article/n/obedinenie-germanii-i-politika-m-s-gorbacheva; Он же. М.С.Горбачев и объединение Германии // Новейшая история России, 2011. №1. С. 201-215.

9Павлов Н.В. Указ. соч. С. 545.

10Горбачев М.С. Жизнь и реформы: В 2 книгах. М.: Из-во «Новости», 1995 г. 653 с. Часть III. Новое мышление и внешняя политика. Глава 22. Объединение Германии. Судьба «плана Модрова» // URL: https://www.gorby.ru/gorbachev/zhizn_i_reformy2/page_5/#7

11Memorandum of conversation between Mikhail Gorbachev and James Baker in Moscow // The National Security Archive // URL: https://nsarchive2.gwu.edu//dc.html?doc=4325679-Document-05-Memorandum-of-conversation-between

12Record of conversation between Mikhail Gorbachev and James Baker in Moscow (Excerpts) // The National Security Archive // URL: https://nsarchive2.gwu.edu//dc.html?doc=4325680-Document-06-Record-of-conversation-between

13Абрамова Ю.А., Дмитриев А.Е. Экономические преобразования периода перестройки: 1985-1991 гг // Известия МГТУ, 2013. №1 (15) // URL: https://cyberleninka.ru/article/n/ekonomicheskie-preobrazovaniya-perioda-perestroyki-1985-1991-gg

14Статистика: История цен на нефть. Русский эксперт // URL: https://ruxpert.ru/Статистика: История_цен_на_нефть

15Запись разговора Михаила Горбачева и Джеймса Бейкера в Москве (отрывки) // Архив Горбачев-фонда. Фонд 1. Оп. 1. Перевод А.Меляковой. С. 8-9 // http://historyfoundation.ru/doc06/

16Letter from James Baker to Helmut Kohl // The National Security Archive // URL: https://nsarchive2.gwu.edu//dc.html?doc=4325682-Document-08-Letter-from-James-Baker-to-Helmut-Kohl

17Memorandum of conversation between Mikhail Gorbachev and Helmut Kohl // The National Security Archive // URL: https://nsarchive2.gwu.edu//dc.html?doc=4325683-Document-09-Memorandum-of-conversation-between

18Никифоров Олег. Какие силы «склеили» ФРГ и ГДР // Независимая газета. 6 апреля 2020 // URL: https://www.ng.ru/ideas/2020-04-06/7_7835_germany.html

19Фалин В.М. Без скидок на обстоятельства. М., 1999. С. 447. См. об этом также: Наринский М.М. М.С.Горбачев и объединение Германии. По новым материалам // Новая и новейшая история. 2004. №1. С. 14.

20Ответы М.С.Горбачева на вопросы корреспондента «Правды». 21 февраля 1990 г. // URL: http://militera.lib.ru/docs/0/pdf/sb_mihail-gorbachyov-i-germansky-vopros.pdf

21Пушков А.К. Как Горбачев немцам сдался: подоплека крупнейшего поражения внешней политики страны // Московский комсомолец №28319 от 24.07.2020 // URL: https://www.mk.ru/politics/2020/07/23/kak-gorbachev-nemcam-sdalsya-podopleka-krupneyshego-porazheniya-vneshney-politiki-strany.html

22Вывод Западной группы войск из Германии // РИА «Новости» // URL: https://ria.ru/20190831/1558025955.html

23Пушков А.К. Указ. соч.

24Memorandum of Conversation between Helmut Kohl and George Bush at Camp David. February 24. 1990. 2:37 – 4:50 РМ EST Camp David – First Meeting, Declassified per E.O. 12958 as amended 8/21/2009 / The National Security Archive // https://nsarchive.gwu.edu/dc.html?doc=4325690-Document-13-Memorandum-of-Conversation-between

25Ibid.

26Ibid.

27Ibid.

28Ibid.

By KokusaiSeikatsu

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