アメリカの不条理

ミハイル・タラトゥタ (翻訳:安本浩祥)

南北戦争時代、合衆国からの分離独立を目指して活動した南部人たちの銅像に対して抗議する黒人活動家と左翼系リベラルたちの心理はある程度理解できる。しかし、その矛先がコロンブスに向けられ、建国の父といわれるジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、さらには傑出した大統領であるユリシーズ・グラント、アブラハム・リンカーン、セオドア・ルーズベルトにまで向けられた時、そしてはたまた伝統的なキリスト像が白人の顔をしているという抗議まで噴出する事態にまでなった今、この問題は深く考え直さなければならないだろう。


どれほどすばらしい思想であっても、それが極端にかたよってしまえば不条理となり、時には、最初の意図とはまったく反対の結果を生むことさえある。

リベラリズムからリベラル独裁へ

例えば、リベラリズムのかかげる理想はすばらしいものだ。その根幹をなすのは、法の下での平等、市民の権利と自由の尊重、個性の尊重、そしてもちろん、自由な市場である。リベラリズムというのはイデオロギーの中心であり、その中心からすこし左には民主党が、すこし右には共和党が位置するが、伝統的にその両者ともに、リベラリズムに軸足をおいてきた。まさにそのようなバランスが存在したことによって、国内においては妥協という手段を通じ、政治的均衡を維持することができたのである。しかしここ数十年、そのバランスはますます崩壊の度合いを増し、結果として、民主党も共和党も、リベラリズムという中心からどんどんと遠ざかっている。特に、左方向への動きが顕著である。

そのようなわけで、民主党の大統領候補であるジョー・バイデンは、もともと党内では中道派として知られていたが、大統領選挙で少しでも優位に立つために、かなり左傾化の動きを強めている。彼は、化石燃料の放棄と再生可能エネルギーへの移行を唱える、いわいる「グリーン革命」を支持する構えだ。左派ポピュリズム的ユートピアの典型ともいえるこの「グリーン革命」なるものには、何十兆ドルもの資金が必要になるが、そのようなカネは米国にはもちろんないし、世界中を見わたしてもおそらく見つからないだろう。米国に住む1,100万人の不法滞在者について、バイデンは気前よく、全員に国籍を与える法案整備を公約している(ただし、イエール大学とマサチューセッツ工科大学の調べによれば、不法滞在者の数は2,200万人にものぼるという)。そしてこれは、米国の国境を開放すべしと主張する左派の人々の夢の実現に向けた第一歩に過ぎない。バイデンはほかにも多くのことを公約しているが、それは、左派の人々でさえ以前には実現不可能だと考えていたようなものなのだ。

リベラリズムという中心から離れてさらに左翼へと傾いていく、この傾向は民主党内のみならず、広くリベラル陣営にこんにち見られる傾向であるが、そうすると我々は、バーニー・サンダースやエリザベス・ウォーレン、さらには副大統領候補のカマラ・ハリスといった社会主義者たちに行きあたる。行き着く先は、社会主義的改革、国家による富の再分配によって社会を変革するという彼らの理想であり、教育と医療の無償化ということなのだが、これはまた何兆ドルもの支出となり、米国にそのような余裕はない。残る方法は、我々もよく知っている「略取と再分配」という手段しかない。

「略取と再分配」という考え方は、もっと左寄りの人々の間では、それほど現実離れした考えではない。そこで我々が目にするのは、いわいる「プログレッシブ(進歩主義者)」、つまり、ボリシェビキ的倍音を伴った左翼的政治家たちである。彼らは社会正義のために戦う闘士たちであり、例えば、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスやイルハン・オマル、アヤンナ・プレスリー、ラシダ・トライブといった、若く、アグレッシブで、若者の間で非常に人気のある下院議員たちのことである。彼らは、腐りきったシステムである資本主義を解体することを自らの使命と心得ている。この考え方は、大学の教授陣や評論家、哲学者などといった多くの左翼言論人によって支持され、広がっている。

進歩主義者たちはまだ、資本主義を廃止してしまうまでは行っていないが、「文化革命」、すなわち、こんにちの米国において社会意識を改変し、同志的カルトを作り出すこと、これにはかなりの成功を収めている。彼らは、リベラリズムが理想とする権利と自由の尊重や個性の尊重といったものを、そのまったく反対の概念にすり替えようとしている。彼らが目指すのは、一種のリベラル独裁であり、反対意見の弾圧であり、人々の考え方を監視することなのだ。これについてはまた後で詳しく述べよう。さらに左へと目をうつせば、アンティファ運動のアナーキストたちやその他の左翼過激主義者たちがいる。彼らにとっては、破壊のプロセスそのものが、人生の理想と調和に他ならない。

公民権運動から白人種の自己否定へ

リベラリズムの理想と並び、米国ではじまったすばらしいものとして、公民権運動が挙げられる。1960年代、米国は有色人種の分離政策が破廉恥であることに気づき、すべての差別的法律を撤廃した。白人マジョリティは、肌の色が違う何百万人もの同胞たちの権利と自由を侵害するという歴史的犯罪について、単に自分たちが見て見ぬふりをしてきただけでなく、事実上、その共犯者であったことを認めたのである。

懺悔の気持ちというのはいつの時代であれ、多くの文明国において善行を促す力となってきた。しかし、この懺悔というものも、極端に左寄りな人々の手にかかれば、無意味なものと化してしまう。例えば、進歩主義の代表的論客であり、若者の崇拝の対象でもあった、作家で哲学者のスーザン・ソンタグは、半世紀以上も前に、「白人種は、人類の歴史という体にできた癌腫瘍である」と結論づけているが、それなどは、懺悔が不条理に堕してしまった例である。この考え方は、進歩主義イデオロギーの特徴の一つであるともいえる。これはすでに現代の話であるが、ニューヨークタイムズ紙のニコル・ハンナ=ジョーンズ記者は、米国について、「人種差別はこの国のDNAのなかに含まれている」と書いているのだ。編集長のジェイク・シルバースタインは、彼女の主張を支持して、「奴隷制度はこの国にとっての原罪であるといわれることがあるが、実際にはもっと悪いことに、米国の性質そのものなのである」と述べている。

そのような自己苛責、白人種の原罪意識をカルトにまで仕立て上げることによって、進歩主義者たちは、いわゆる「白人特権」との闘いの信奉者となっている。彼らの考えによれば、チェスの先手が白であることも、チョコレートでコーティングされたアイスクリームが「エスキモー」と呼ばれていることも、すべてが「白人特権」の証左なのだ。驚くべきことに、この醜悪なるカルト崇拝におけるもっとも熱心な信者は、ほかならぬ白色米国人である。より正確にいえば、進歩主義の考えにますます凝り固まっていくリベラル派の人々である。これは常識的に考えて、公民権運動からの大きな逸脱であるといえるだろう。

必要な支援から甘えの意識へ

有色人種の分離政策を廃止した白人マジョリティは賢明にも、黒人マイノリティが社会的および経済的階段を上るための手助けをしなければならないと考えた。就職および入学における割当制度をはじめ、助成金、住宅補助、食料チケットなどの支援策はたしかに、最初の数年、おおくても最初の十年は必要不可欠であった。しかしそれらの優遇策は、半世紀もの間、いまにいたるまで続いているのだ。その間、もともと慈善事業であったものが、まったく反対の違うものに徐々に変質してきた。優遇策によって、多くの黒人住民のなかで、被害者意識が世代を超えて継承され、優遇されて当然と考える気持ちが根付いている。常に被害者であると考える彼らは、社会はいつでも自分たちに十分なことをしてくれていないという確信を抱くようになったのだ。この彼らの確信は、白人側の罪の意識によっても補強されている。一方における絶え間ない被害者意識と、他方における罪の意識とが一緒になって、あたかも連通管のように作用しているのである。

確かに、野心的な人々は、貧困と負の遺産を脱却するため、優遇制度をうまく活用した。こんにち、アフロアメリカンの約40%が中産階級であり、さらにその一部は富裕層でもある。しかし黒人の60%はいまだに、出口のない状況でもがいているのである。生活保護の受給者における人種別割合でみれば、黒人は39.8%で最も多いが、黒人の全人口に占める割合はたった13%に過ぎない。比較のために数字を挙げておけば、生活保護受給者における白人の割合はわずかに低い38.8%であるが、全人口に占める白人の割合は72%と圧倒的なマジョリティである(そのうち、ヨーロッパ系白人は60.2%)。

被害者意識は歴史的感情と相まって、黒人の内に劣等意識を植え付け、白人社会におけるコンプレックスを克服できないでいる。彼らにとっての社会とはいつでも、黒人に対する障壁と白人に対する特権でなりたっているのだ。この劣等感は常に彼らを不安にさせ、白人は自分たちに対して優越感を持ち、自分たちの権利を侵害しようとしているのだ、という疑念を抱かせている。このチクチクとくすぶり続けている不満は、いつなんどき、大火事となって広がるかもしれない。それには些細なきっかけさえあればいいのだ。このように、当初最善の意図によって切り開かれた道は、いつの間にか、地獄へと続く道になってしまったのである。

細やかな気遣いから社会的検閲へ

被害者意識をもち、神経をとがらせている黒人住民に対して、細やかな気遣いを示すことはとても尊敬に値することであるが、リベラル思想の活動家たちは、それをアフロアメリカンに対する、ときに慇懃無礼とも思われるような、卑屈な態度へと変えてしまい、すべてが十把ひとからげに「ポリティカル・コレクトネス」と呼ばれるようになった。その最たる例としては、他のすべての言語において中立的に使用される「ネグロ」という言葉をタブーとしたことである。他にも、白色米国人が黒人を批判することは暗黙のうちに禁止されている。白人の上司が、アフロアメリカンの従業員に対して、その勤務態度を注意することですら、危険な行為となったのである。なぜなら、その上司の行為は人種差別的であると非難されるかもしれず、それは人事異動にも影響を与えるかもしれないからだ。

以上のように、ポリティカル・コレクトネスは、ますます一種の検閲としての特徴を備えつつある。それはなにも、国家による上からの検閲を指すのではない。それは、隣人や同僚、知人や見知らぬ人々による社会的な検閲である。しかも、リベラル陣営は検閲の基準を目いっぱいにまで引き上げ、一つの失言が、村八分、職場やSNSにおけるいじめ、自宅におしかけるデモ、さらにはその人の職を奪うことにもなるのだ。しかし、もしそれと全く同じ発言が、他の人種や民族に対するものだとしたら、誰もそれに気がつかなかっただろうと思われるのである。

融和政策から逆差別へ

以上のようなリベラル側の努力によって実現したのは、会社や学校、テレビ局、芸術の世界など、ありとあらゆる場所における人材が、負の選択で選ばれるようになったことである。例えば、黒人と白人という二人の候補者のなかから一人を採用するとなったときに、その黒人がたとえ能力の点で劣っていたとしても、採用されるのは黒人である。そして逆にリストラの場合、真っ先に解雇されるのは白人である。これと似たようなことは、多くの大学でも見られる。現在法務省は、米国でも最も権威のある大学のひとつであるイエール大学において、黒人が優遇され、白人とアジア系受験生が不当に差別されていたのではないかという事件について調査を進めている。このような事態は、もとはといえば、黒人住民たちの社会的立場を向上させようという善良なる意図から生まれたものだ。そのために、大学や企業の多くでは、民族多様性担当の副学長や役員を置き、黒人の利益が不当に損なわれないようにした。しかし50年がたち、そのような努力はまったく反対の結果を生むこととなった。アフロアメリカンが特権を手に入れ、他の人種は暗黙のうちに差別されるようになったのだ。

言論の自由からリベラル独裁へ

米国における大学生活の特徴のひとつは、さまざまな政治的見解を自由に議論できるということだった。しかしいまやそうではない。リベラル派の人々が極端に左傾化したことによって、政治的志向も二極化した。理想や価値観に関する議論はいまは単なる議論にとどまることはなく、違う考えを持った相手を、議論の相手として冷静に受け入れることもない。進歩主義者にとって、これは相手を徹底的に叩き潰すための戦場なのだ。別の言い方をすれば、いつの間にか、左派リベラル勢力は、対立勢力の口を完全に封じてしまったのである。こんにち、左派リベラル勢力と考えを異にする人々であっても、自分のキャリアや将来に傷がつくことを恐れて、自分の考えをあえて口にしないし、公衆の面前でリベラル勢力にわざわざ媚を売るようなことまでしている。このように多くの大学において、ひとつの政治的意見こそが正しいという雰囲気が支配しており、ほかの考え方、違う政治的意見に対しては、その存在を許さないという戦闘的雰囲気さえある。その矛先が向かうのは、ポリティカル・コレクトネスにすこしでも反するような言動であり、ポリティカル・コレクトネスに反するかどうかは恣意的に決められるのである。ある人は、「リベラル独裁」という言葉でもって、このような現状をとても正確に表現している。

このメカニズムは様々に作用しうるが、なかでも悲劇を生みだした例として、ノースカロライナ大学ウィルミントン校の犯罪学教授であったマイク・アダムスの自殺が挙げられる。事の発端は、黒人で累犯者であったフロイドが警察官に拘束される際に死亡したあと、それに抗議する人々が商店を襲ったことについて、アダムスが「盗賊たちが混乱に乗じて、罰を受けることなく法を犯している」と不用意な発言をしたことにある。この発言に対して、ネオリベラル思想に凝り固まった人々は、署名サイト Change.org において、アダムスに女性差別主義者、排外主義者、同性愛差別主義者、人種差別主義者のレッテルを貼り、アダムスを教授から解任するよう要求した。この署名をきっかけに、SNS上ではアダムスに対する大規模な誹謗中傷が相次いだ。大学指導部は、自分たちと大学全体が厄介な問題に巻き込まれるのを避けるため、「SNS上での問題発言で社会的非難を集めている」という理由で、アダムスに辞任を強制した。アダムスはストレスに耐え切れず、銃で自らの命を絶った。

また、サンフランシスコ近代美術館の発展のために大きな貢献をした有名な美術研究者で、同美術館のシニア・キュレーターであったゲイリー・ガレルスも、人種差別主義者との非難を受けた一人である。彼は、絵画の購入において白人画家をひいきしているという根拠のない告発を同僚から受け、自殺こそしなかったが、辞職することを選んだ。ガレルスはこれを逆人種差別であると指摘したが、この発言がまた、人種問題で動揺する同美術館の職員たちの間に波乱を巻き起こす結果になった。芸術という高尚な世界に生きていたガレルスはおそらく、下界における時代の変化に気がつかなかったのかもしれない。下界においては、木をそのまま木と呼ぶことも、草をそのまま草と呼ぶことも、もはや安全とは限らないのである。こんにち、62%の米国市民は、公の場で自らの政治的意見を明らかにするのを恐れている、という状況を、彼は知らなかったのかもしれない。共和党支持者においては、実に77%の人々が、公の場での政治的発言を避けている。安心して発言できるのは、ただ左翼陣営の人々に限られる。いまは彼らの時代なのだ。

大規模な抗議活動と混乱が引き起こしたモラル・パニックが最高潮に達する中で、社会のなかでは戦闘的進歩主義者たちが急激に幅を利かし始めた。彼らは、社会にいる全員が同じ政治的考えを持つべきだと考えており、集団的(群れとしての)行動規範からのいかなる逸脱をも絶対に許そうとはしない。彼らの考え方は極めて単純だ。味方か、そうでなければ敵、すなわち人種差別主義者、というわけだ。例えば、オクラホマのサッカーチームでヘッドコーチを務めるマイク・ガンディは、BLM(Black Lives Matter)運動に批判的で、トランプ政権支持の論調で知られるテレビ局「One America News」のロゴが入ったTシャツを着ていたというだけで、人種差別主義者であるとの非難を浴びることとなった。チームの選手の一人(アフロアメリカン)がガンディ批判の口火を切ると、自らを正統派と自認する人々が一斉にガンディに襲いかかり、彼のキャリアは瞬く間に脅かされたのである。ガンディは敗北を認め、「与えた痛みと苦痛」について、選手たちが自分を許してくれるよう、涙ながらに頭を下げたのだった。

このような状況を生き抜いていくためには、自分たちの周りの人々の言動に合わせておかなくてはならない。BLM運動を歓迎し、黒人の前に膝をつき、白人の罪に対して赦しを乞うのである。黒人の前では、州兵や警察官がいくら束になったところで、結局は膝をつくしかないのだ。もしそれを拒否するならば、人種差別主義者との烙印を捺されることになる。確かに、白人を跪かせることが人生の夢であったという黒人もいるかもしれない。これは、蓄積されてきた怒りと憎しみを晴らすためであり、自らのコンプレックスをどうにか慰めることのできる待ちに待ったチャンスなのだから。一方で、膝をつき、黒人の靴に口づけをし、終わることなく懺悔し続ける白人にとって、もしかするとこれはカタルシスであって、禊であるのかもしれない。しかしそれ以外の人々は、なぜ自分たちが膝をつかなくてはならないのか、まったく理解できないし、こっちの人々の気まぐれとあっちの人々のヒステリックに同時に付き合わされるのは、拷問以外のなにものでもない。無理に付き合わされている人々の我慢も、そろそろ限界に近付きつつある。

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人種間の平和というリベラル的理想から人種間の抗争へ

彼らの全員に、反撃のための行動を起こす勇気があるわけではない。多くの人々は、単に大都市を離れるという消極的行動に出ているに過ぎない。抗議運動が広がっている大都市においては、強盗犯や窃盗犯たちの前に、民主党選出の市長たちはなすすべがなく、手をこまねいている。いまや過激主義者たちの言いなりにすぎない行政は、警察予算を削減し、警察人員を削減し、混乱の鎮圧にあたって強制力の行使を禁止している。商店が強奪され、放火が横行しているのは、まさに民主党選出の市長がいる都市においてである。ニューヨーク、シカゴ、シアトル、ポートランドなどでは、急激に犯罪率が上昇している。しかし、警察の士気は下がっており、事態を収拾することはできない。行政の政治介入が甚だしい現状において、警察官が正当防衛のために発砲したとしても、それが正当防衛と認められるかどうかは疑問であり、警察官自身が刑務所行きになる可能性さえあるのである。一方で、民主党に忠誠を誓った市長や知事たちは、何かしないといけないということは分かりつつも、身動きできないままでいる。選挙民の約4分の1がアフロアメリカン住民であり、そのアフロアメリカン住民が抗議活動を行っているという状況の中で、いったい何ができるというのだろうか?

しかし、行動する勇気をもった人々もいる。すなわち、BLM運動に対して抵抗しようとする人々である。例えば、オレゴン州最大の都市であるポートランドには8月、600台に上る自動車キャラバンがやってきた。彼らは、左翼主義者、無政府主義者、強盗窃盗犯たちに国を明け渡してなるものかという固い意志を表明するためにやってきたのである。彼らは当然、街の中心部を占拠していたBLM陣営と衝突することとなった。一人が犠牲となった。他の都市では、地元住民たちが自警団を編成し、自分の家と店を守ろうと立ち上がっている。9月最初の時点で30の都市が暴動に巻き込まれ、うち25の都市では夜間外出禁止令が出されている。リベラル的理想はそもそも、世の中の悪をなくすために生まれたはずなのだが、いまや左翼勢力の介入によって、大規模な暴動を生み出す原因となってしまったのである。

醒めよ我が同胞、暁は来ぬ…

はたから見れば、米国は狂気に呑まれてしまったかのようである。無秩序で無意味な暴力の跋扈、感染症の拡大、強盗と放火、警察を解散を求める大衆の妄言、銅像をめぐる争い、カオスと果てしなく続く「人種差別!人種差別!人種差別!」の叫び声、これらすべてのことは、あたかも、一時的な状況の悪化、さまざまな状況が運悪く重なってしまった結果だと感じるかもしれない。しかし、それはあくまでもそう感じるだけの話で、実際には、現在起こっていることは起こるべくして起こっている。背景には、一貫したイデオロギー的土台があり、かなり以前から、担い手となる人材が入念に養成されてきたのである。

マッカーシズムによっていったんは萎んでいた米国の政治思想界は、1960年代の公民権運動によって再びその活力を取り戻したが、それは、大学に居場所を見つけた左翼思想も例外ではなかった。こんにち我々が目にしているように、他ならぬ大学こそが、培養器となり、さらには生産効率のいい養殖場として、一世代、さらには次の世代の左翼活動家たちを育てたのである。彼らの考え方は、リベラルな基準からみても、かなり左に寄っており、資本主義が救いようのないほど堕落していると考えるあたりは、ほとんどマルクス主義者かと思われるほどである。当然、彼らは資本主義と闘わなくてはならないと考えている。現在、「進歩主義者」という名称で知られる彼らは、社会のすみずみにまで浸透している。そして進歩主義者たちは、次に挙げるような情勢判断のもとで、まさに理想の実現のために決起するべき時が来たと考えた。

・米国内の対立が先鋭化し、60年前の公民権運動に匹敵するほど、深刻な分裂を抱えている。トランプ政権への反対勢力は強く、トランプ再選の阻止は十分に可能である。

・米国では、左翼思想に芯まで染まった世代が成長し、極左過激思想の持ち主もいる。彼らの一部は、政界やマスメディア、芸能界、大学、ハイテク産業において、指導的立場についている。

・左翼プロパガンダに扇動された黒人の低所得者たちは、コロナ対策で数カ月に及んだ外出自粛の間にため込んだエネルギーを発散する機会を渇望しており、ほぼ沸点に達している。わずかなきっかけさえあれば、彼らはデモに繰り出し、強盗、略奪、放火に至るまで、なんでも言うとおりに動く駒になる。

・進歩主義者は民主党の指導部にも食い込んでおり、党としても左派勢力の意見に耳を傾けざるを得ない。大統領選挙を前に、左寄りの人々の票は、民主党としても確保したい。党の執行部だけでなく、連邦議会下院議員や州議会議員、さらには、シンクタンクの研究員やほぼすべてのマスコミに至るまで、事情は変わらない。白人の自虐思想、「白人特権」に対する闘い、警察組織の解体といった左翼的考えを、彼らは熱心に支持し、それは当然、平等を目指す闘い、「体制的人種差別」との闘い、といった旗のもとに収れんされていくことになる。

・そして最後に、最も重要なことであるが、BLM運動、つまり「黒人の命の守れ」というように黒人を利用したスローガンは、米国における左翼思想の実現のためには最適のツールであることが分かっているのである。

以上のような資産をもって、左派リベラル、進歩主義者らは、今年の夏の出来事を迎えた。彼らは、理論武装し、自らの目的を理解し、特に白人の青年層をはじめとする知識層に影響力を持っていたが、大衆を動員するための組織力を持っていなかった。一方のBLM運動には、内容といえば、怒りと、自己憐憫と、白人への憎しみと、警察の横暴を非難し、人種差別を叫ぶ声、そして、すべてが今とは違うようになればいいという欲望しかなかった。トロントにおけるBLM運動の指導者のひとりであるユスラ・ホガリは、世界の将来像として、次のような発言をしている。「白い肌というのは、劣等人種に特有の異常体質である。黒人種には遺伝のすべての表現型が具わっているが、白人種は黒人の遺伝的欠陥にすぎない。黒人種は機会さえあれば、自らの優性遺伝子をもってして、地球上から白人種を絶滅させることができる」。

幸いなことに、BLMにはいまのところそのような機会はない。その代わり、彼らには大衆を動員できる組織力がある。共感をよせる白人のリベラル勢力、なかでも進歩主義者たちが、黒人の抗議活動に合流したのは自然な流れだ。多くの点で、目指す世界像と方向性は合致している。最近、ニューヨークのBLM運動の指導者であるホック・ニューサムは、次のように自らの考えを述べている。「この国が、我々の望むものを与えてくれないのだとしたら、我々はこの体制を焼き尽くし、それに代わる体制を打ち立てるだろう。私の言ったことを比喩だととらえるか、本気ととらえるか、それは解釈の問題だ」。進歩主義者たちは、これを本気だと解釈しており、うまく利用できると考えている。BLMが唱える「人種差別との闘い」、「人種的平等の確立」というスローガンは、リベラル勢力から熱烈に歓迎され、より大きな変革を目指すためのうってつけの隠れ蓑となるだろう。

興味深いのは、BLMの活動家たちも、白人の左翼勢力をうまく利用できると考えている点だ。それは彼らの発言のなかからも時折うかがえる。例えば、活動家のアシュリー・シェケルフォードは、「運動に参加する白人たちは、よく言っても二等市民に過ぎない。彼らはただ単に、生きた盾であり、『魚雷』であり、金ヅルである」と話している。「魚雷」は「魚雷」で結構だ、とアンティファ運動に参加する左翼無政府主義者は考えている。彼らにとっては、BLMの威を借りられればいいわけで、BLMが自分たちをどう考えているなどはどうでもいい話なのだ。無政府主義者たちは、明確なイデオロギーを特に持たず、単純に国家に反対しているという立場から、今回の暴動に喜んで参加しているだけに過ぎない。

暴動が収束する気配はみられない。そして進歩主義者たちは引き続き、人種的平等を目指す闘いという理想でもって、社会的意識を虜にしている。実のところその正体は、左翼的正論から外れたような考えは一切許さないという闘いである。それはますます感情的テロルの様相を呈している。いま米国は、「体制的人種差別」と「白人特権」との闘争というヒステリー、人種差別主義者を血眼になって探し出し、一切の反対意見を許さないというヒステリーに、完全に飲み込まれているが、これも民主党からの強力な支持があってはじめて可能になったということは指摘するまでもないだろう。民主党は上記のようなスローガンを隠れ蓑にして、トランプの大統領再選を阻止するという自らの目標を達成しようとしている。民主党は、打倒トランプのためならば、国そのものを危険にさらすのもいとわないようだ。ただ、いまや民主党の思惑を超えて、事態はコントロールできないものになりつつある。BLM活動家たちの好き放題をおさえることができるのは誰もいない。米国では「文化革命」が起きつつあり、この結果たるや、惨憺たるものになるかもしれないのである。

そして「文革」はまだ始まりにすぎない

今回の暴動がはじまった際に真っ先に狙われたのが、南北戦争で合衆国からの分離独立を目指して戦った南部諸州の偉人像や記念碑であった。黒人活動家やリベラル勢力の動機は、完全に納得できるものではないにせよ、まだ理解できた。なぜなら、南部諸州というのは、奴隷制度の支持者であったからだ。しかし、その矛先がコロンブスに向けられ、建国の父といわれるジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、さらには傑出した大統領であるユリシーズ・グラント、アブラハム・リンカーン、セオドア・ルーズベルトにまで向けられた時、そしてはたまた伝統的なキリスト像が白人の顔をしているという抗議まで噴出する事態にまでなった今、この問題は深く考え直さなければならないだろう。これは、優れた歴史上の人物に対する打撃というだけにとどまらない。多くの点で、米国のアイデンティティを形作っているような、神聖なる人物に対して、破壊者たちは手を上げたのである。

いかなる革命においても、過去の遺産の破壊が伴うことはよく知られており、銅像というのは真っ先に標的にされる。これは、大衆の意識のなかに、新しい権力、新しい思想と理想と植え付けるために必要不可欠な象徴的行為だといえる。

米国の評論家であるアンドリュー・サリヴァンは、現在起こっていることのなかに、さらにいくつかの革命的特徴を見出している。まず第一に、革命においては、抑圧者として非難されている側が、自らの無法行為を公に謝罪することが必要である。この特徴は、特に中国の文革において顕著であった。こんにちの米国においても、これは毎日行われている。第二に、革命においては、市民による直接の関与が奨励される。100年前のロシア革命においては、労働者と兵士からなる自警団がその役割を果たし、その50年後には、紅衛兵が中国において同様の役割を果たした。現在の米国において、BLMがシアトル、ポートランド、ケノーシャ、ニューヨークなどの都市で行っていることは、それと同じことだ。いかなるときでもそれは、無法地帯を生み出し、暴力の拡大を引き起こした。

また多くの革命に共通するのが、言語面における特徴、すなわち、既存の秩序を破壊するため革命家たちは、新しい言葉を作り出す。ボリシェビキ時代のロシアにおいても、毛沢東時代の中国においても、革命に反対する者たちに対しては新しい言葉が作られ、ロシアでは「コントラ(反革命)」という言葉が登場した。こんにちの米国においては、「人種差別主義者(racist)」がそれである。このレッテルは、米国において「体制的人種差別(structural racism)」など存在しないと主張する人々に対して、片っ端から貼られていく。黒人学生に対する試験を易しくしないならば、その人は「人種差別主義者」と呼ばれる。警察の専横だけでなく、黒人と他の民族集団との間におけるいかなる違いも、それはすなわち「体制的人種差別」の証左になるのだ。つまり、肌の色に無頓着であること、これも人種差別主義者(レイシスト)というわけだ。かつてのボリシェビキ・ロシアにおいては、「コミュニズム」は神聖不可侵なる言葉であったが、現在の米国においては、「アンチレイシズム」がまさにそれで、アンチレイシストでない人は、それだけでレイシストとされる。アンチレイシストになるには、運動に参加するか、それに資金を提供するか、そのどちらかだ。それ以外の人は全員、レイシストと呼ばれるのである。

民主党は現在、左派リベラル勢力がそうしているように、BLM運動を闘争手段として利用している。民主党はすべてのリソースをドナルド・トランプの再選阻止に注いでおり、それ以外のことはまるで見えていない。もし今の状況でバイデンが大統領になれば、デモ活動で力をつけた党内の左派勢力が権力を握ることとなる。彼らは、国の政策を大きく左に転換し、穏健派リベラルの追随を許さないだろう。そのことを民主党指導部は考えていない。事態をエスカレートさせることによって、感情もエスカレートし、BLMと進歩主義者はさらに勢力を拡大していく。その勢力圏内において、米国を米国たらしめているものがひとつひとつ破壊されていく。歴史、文化が破壊され、米国のアイデンティティが破壊される。これこそが、左翼過激派が目指す新しい世界建設の夢にほかならない。

米国は果たしてこの道を突き進み続けるのだろうか。その答えは、11月3日、米国大統領選挙で明らかになるだろう。

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https://www.lowincome.org/2016/04/truth-about-welfare-foodstamps-how-many-blacks-vs-whites.html

https://www.cato.org/publications/survey-reports/poll-62-americans-say-they-have-political-views-theyre-afraid-share?fbclid=IwAR0PXx3TfWpD5_a2rG4W0DUSOAxzT_XT13ZqAvBtxW5tT9X
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