露米関係の発展と衰退 ジュネーブ会談までの過去10年間の発展を振り返って

アレクサンドル・サヴォイスキー

経済戦略研究所「持続可能な開発」センター長、准教授、政治学博士

(翻訳:中村有紗)

 20世紀と21世紀の変わり目には、米ロ関係は以下のような活発な活動によって特徴付けられます。政界のエリートや外交官、例えば、ウラジーミル・プーチン氏は、首相、そして大統領として、W.クリントン米大統領と共に、1999年9月から2000年9月の一年間だけで、APEC首脳会議、G8、ニューヨークで開催された国連のミレニアム・サミットなどの首脳会議に参加しました。

 2001年6月から2008年4月までの7年足らずの間に、プーチン大統領とブッシュ・ジュニア大統領の公式・非公式の会談は最も頻繁に行われました。中立地での二国間首脳会談(スロベニア、スロバキア、チリ)、ロシアとアメリカへの国賓・実務者訪問、2005年のニューヨークでの周年となる国連総会、毎年恒例のG8とAPEC首脳会談など、その数は24回に及びました。

 2001年9月11日にニューヨークとワシントンで起きた悲劇的な事件の後、モスクワは外国で最初に支援の手を差し伸べた国でした。両国は、国際テロ、核拡散、地球上の麻薬密売などに対抗するために協力するようになりました。二国間の貿易・経済関係が拡大し、航空、投資、宇宙、科学技術、燃料・エネルギー外交、各種サービスの提供など、さまざまな分野で露米の協力関係が大きく発展しました。ロシアとアメリカの大統領は、原油価格の高騰を調整することに成功しました。しかし、これらの価格は依然としてペトロダラー(オイルマネー)に大きく連動しており、ロシアの予算は世界のエネルギー価格に依存しているのが現状です。

 露米ビジネス協力協議会やアメリカ・ロシアビジネスカウンシル(USRBC)、ロシア・アメリカ・エネルギー対話などの新しい組織は、二国間の交流に良い影響を与えました。これらの交流のマネジメントは、両国の大統領が個人的に行っていました。

 全体的に良好な二国間関係を背景に、NATOの東進、コソボの地位、国連安保理の承認を得ていないイラク爆撃、米国のミサイル防衛システムの欧州配備など、国際問題をめぐるロシアと米国の政治的交流に緊張が高まっていました。世界経済へのさらなる統合を期待していたロシアでしたが、WTOへの加盟が遅れ、1974年に制定された米国貿易法の不当なジャクソン・ヴァニック修正条項が維持されるなど、その期待は裏切られたのです。ロシアが望んでいた米国との対等なパートナーシップは進みませんでした。経済協力と政治協力はそれぞれ独自の経緯を辿り、相互に影響を与えることはほとんどありませんでした。

 ロシアは、国の崩壊、1990年代のデフォルトとハイパーインフレを克服し、世界の大国としての地位を取り戻し、債務国から債権国へと変貌しました。2008年までには、ロシア国内のGDPが大幅に増加し、米国の対ロシア債務額は650億ドルに達しました。

 そんな中、2007年2月10日のミュンヘン安全保障会議で、プーチン大統領が「現代世界の一極モデルはあり得ない」と述べ、今後はロシアの利益を考慮するよう欧米に呼びかけたことは画期的な出来事でした。

 ロシアのメドベージェフ大統領とアメリカのオバマ大統領は、米ロ関係の「リセット」に取り組みました。ラブロフ外相とクリントン米国務長官は、2009年3月6日にジュネーブで象徴的なボタンを一緒に押しました。このことはさらなる二国間関係を新たなレベルで発展させるきっかけとなりました。一方で、ウクライナ、グルジア、旧ソ連の中央アジア諸国で起きた「ビロード革命」や「カラー革命」は、米国の影響によって発生したものであり、それをめぐっては両国の間に明確な立場の違いが見られました。

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