バルト諸国の歴史政策がロシアとEUとの関係に与える影響

セミョーン・ボイコフ

ロシア連邦外務省外交アカデミー博士課程

(翻訳:福田知代)

「歴史政策」という用語は、政治的実践のカテゴリーとして、1980年代にドイツ連邦共和国で初めて用いられ、その後、2000年代にポーランドで使われていた。ロシアの歴史学者A.I.ミレルが指摘しているように、歴史政策とは、国家、行政および財政資源を、歴史および記憶の政治の分野において、支配層のエリートのために活用することを前提とする、特殊な手法の形態である。実践的な見地において、歴史政策は、なんらかの歴史的ナラティブをめぐって国民を団結させる目的で、政治闘争の手段として用いられている。全体として、ドイツの歴史学者A.アスマンが強調しているように、歴史政策は、公衆の議論と、政治的・行政的な決定の承認を研究するものであり、その重要な特徴は、規範的・法的行動の承認である。


ソ連崩壊後に誕生した若い国家の場合、歴史政策は、政権に加わった政治的エリートの正統性・合法性を保障しながら、彼らを中心として社会的大衆を団結させる目的で、民族的自覚の形成、帰属化と、社会的集団の統一強化の手段として利用されている。注目すべきは、内政においては、歴史政策は政権や国家のポジティブなイメージの造成に使われるが、国際的なレベルにおいては、通常、歴史政策は、ライバルと見なす国家や国家グループのネガティブなイメージを造成するものだということである。このようにして、「ウチ、ソト」のレベルでの対照が生まれるのである。

エストニア、ラトビア、リトアニアにおいて、現代的な歴史政策は、ソ連国内の社会的・政治的活動の民主化が、連邦共和国内でナショナリズムの急速な成長を引き起こした1980年代の終わりのペレストロイカ期(1985~1991年)に成立し始めた。すでに1940年から1950年代に形成された「社会主義革命」に関するナラティブは、「ソ連の占領」のコンセプトに取って代わった。これによれば、バルト諸国がソ連の構成国となったのは、民族蜂起の結果ではなく、1939年8月23日に調印されたモロトフ=リッベントロップ協定と、それに続く1940年夏の併合が要因だということになっている。

コンセプトは、エストニア、ラトビアとリトアニアは、事実上ソ連の一部となったが、法的には独立国家のままであった、と謳っている。これにより、バルト諸国の現代的な記憶の政治の根幹には、1918年から1940年の時期に存在した初代のバルト共和国と、1991年に再び成立した国家との間の継承性をほのめかす、「継承国の原則」が据えられている。これ以降、1990年代には、バルト諸国において、空間(都市、集落、通りの名称の変更)、時間(国や地域の祝日や祭日を盛り込んだ、新たなカレンダーの作成)の段階的「横領」、学校の「手懐け」(新たなパラダイムの枠内での歴史教育の開始)、さらには「占領博物館」や、ソ連時代のバルト諸国における抑圧に関連した情報の整理や普及、研究の指針を示すその他の「記憶の研究所」の設立が始まった。

バルト諸国がソ連を離脱してからは、「ヨーロッパへの回帰」と、ロシアとの政治的・経済的つながりの断絶が彼らの主たる目的となった。新たな政治的リーダーたちは、あらゆる方法で東側の隣人に対して冷淡な態度をアピールし、それと同時にヨーロッパ諸国との間の衝突や論争を避けようと努力した。たとえば、欧州統合に向けた方針の中で、リトアニアはポーランドとの関係を改善しなければならなかった。ワルシャワとヴィリニュスは、ソ連時代を「他人支配の暗黒期」と説明した。ドイツの歴史学者E.I.マホーチナが指摘しているように、両国にとって重要な役割を果たしたのは、被害者の言説と、ソ連体制の犠牲者に関する記憶であり、それらが両国の結束を強めたのである。

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